1章から11章まで、私たちはパウロによる素晴らしい教理の解き明かしを聞きました。信仰による義です。律法による義は自分の義を立てようとするものであり、むしろ、神への不従順となることを学びました。イエス・キリストを信じる信仰による義、それ以外に救いの道はないのです。信仰によって義と認められて、罪赦されたのです。では、義と認められて、罪赦されたものとして、どのように生きるべきなのでしょうか? 12章では、「そういうわけですから」と述べて、今度はどのように生きるべきかを説いています。まず第1に、1節―2節ですが、神に対する態度について記しています。第2に、3節―16節ですが、教会内の兄弟姉妹に対する態度について記しています。第3に、17節―21節ですが、教会の外の人に対する態度について記しています。イエス・キリストによって義と認められ、罪赦されたものとして、私たちは第1に、神を礼拝する者となります。私自身を神に受け入れられる聖い、生きた供え物として捧げる生活です。旧約聖書では、祭壇に捧げる動物の生贄の場合は、動物は殺されて、その血を捧げるものでした。しかし、このローマ人への手紙12章1節では、生きたままで供えるように勧められています。それは、イエス様がすでに、私たちの身代わりとしてご自分のいのちを捧げて下さったという事実があるからです。イエス様を信じるクリスチャンの場合は、このからだを生きたままで、神に受け入れられる聖い、供え物として神様に捧げることが求められています。それが、霊的な礼拝です。ところで、礼拝と奉仕ということばは同じです。英語でも同じですね。サービスといったら、礼拝も奉仕も意味します。パートタイムのクリスチャンはいません。クリスチャンはみなフルタイムのクリスチャンです。ある時間だけクリスチャンではありません。どの瞬間も私たちはクリスチャンです。この世に従っていきるのではなく、神のみこころに従って生きる人生です。世界観が完全に変えられます。聖霊様によって新しく生まれたものとして、心の一新によっていきるのです。第2に、兄弟姉妹との関係において、ひとつのからだに属する者として生きるのです。賜物とは神様が各自に与えて下さったギフトです。ひとつの身体でも、いろんな器官があります。皆違いますが、ひとつの身体を構成しています。その基本は、「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」(10節)というものです。それぞれが違う働きをしていますが、同じ一つの目的に向かって生きています。キリストにある新しい世界観のもと、生きるのです(16節)。第3に、教会の外の人に対してですが、誰に対しても悪をはかってはならないということです。また、自分で復讐してはいけないという原則もあります。敵に対しても、憎しみではなく、愛をもって接することです。もし、自分で復讐するなら、罪に問われます。人間は、通常、1やられたら、1かえしてすむものではありません。1やられたら、2か3、いえ10かえして、ようやく心が収まるものです。しかし、もし、そうしたら、神は私たちの罪を問われます。そうではなく、私たちが仕返しをせず、赦すなら、神がその人に、最も適切な方法で復讐してくださるのです。赦さないことは、私たちの過去に、私たちをがんじがらめに束縛するものです。私たち自身が過去に縛られてしまうのです。そこから解放されるために、赦すのです。過去から解放されます。新しい祝福の人生が始まります。

清宣教師