12章と13章では、一般的な勧めがなされてきましたが、ここでは特にローマ教会が直面していた特有の問題について記しています。まず、1節~12節ですが、ローマ教会の中には菜食主義のクリスチャンや、特定の日を重んじるクリスチャンが実際にいたことが分かります。教会内でこれらのグループの人たちが対立していたようです。まず、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」と結論を述べています。「信仰の弱い人」とは、食べ物などに関する立場(菜食主義)を信仰生活の原則にまで強めてしまって、これを守らないといけない、という姿勢をとる人たちでした。一方、パウロ自身は、キリスト者としての自由に立ち、「何でも食べてよいと信じている人」の立場にあるのですが、しかし、すべてのクリスチャンが自分と同じ立場をとるべきである、とは考えていませんでした。立場が異なっても、教会が一致を保つために、お互いに受け入れ成長しあうことが大事である、と考えていました。「食べる人」(信仰の強い人)と「食べない人」(信仰の弱い人)が食物のことで、互いに相手を非難して、自説を主張して対立するなら、ついには教会が分裂してしまうことになります。4節の「しもべ」とは、家内奴隷のことです。当時、家内奴隷はそれぞれが主人のもとに仕える立場にあり、同じ奴隷の間では平等の関係にありました。ですから、仲間の奴隷を裁くことは権限外のことでした。同僚を裁く権利はないのです。というわけで、しもべを裁く権利は、ひとえに主人に属するのですから、教会内で信徒同士がお互いに裁く権利はないのです。大事なことは、主人のこころを自分の心として主に仕えることです。主のみこころは、体に分裂がなく、お互いに助け合うことです。それは「食物」に関する事柄だけでなく、「日」に関する事柄でもそうでした。ある人たちは、特別の「日」を大事にしますが、ある人は、どの日も同じである、と考えます。これらの事柄は、信仰の根幹にかかわることではなく、それぞれの確信、それぞれの判断(良心)に委ねられていることがらです。ただ、そこで、大事なことは、自分の良心に偽ることがないようにということです。つまり、自分の良心に反して、疑いを持ったまま、行動することは罪になります。主が与えられた信仰の良心に沿って、それぞれが行動すればよいことなのです。だれもが、主のために、行動しているからです。次に、13節~23節です。とくに、ここからはいわゆる信仰の強い人たちに対して、勧めがなされています。食べ物に関して言えば、創造の初めに、人間の食物として創造主が備えてくださったものですから、原理的に言えば、一切、汚れているものは何一つないはずです。しかも、主の前に感謝をもって食べるときに、一切、汚れたものはないはずです。しかし、だからと言って、弱い人の良心を踏みにじってはならないというのです。例えば、信仰の強い人が、偶像に捧げられた肉を平気で食べているとすると、信仰の弱い人がそれをみて、自分は食べないほうが良いと信じているのに、ほかの人の目を気にして、疑いを持ちながらも食べてしまうかもしれません。すると、後になって、信仰の弱い人が、自分のしたことを悔いて、信仰から離れてしまうかもしれません。ですから、信仰が強い人は、原理的にこうであるから、といって押し通すのではなく、信仰の弱い立場の人たちの考えも理解して、彼らをつまずかせないようにする義務があり、そのほうが優先されるべきことがらであることを知らせています。強い人の行動が、弱い人の人格的な統一(良心と行動の一致)を破壊してはいけないのです。キリストに仕える人は、霊的な成長を心がけ、教会の中の平和を保ち、お互いの徳を立てることを追い求めるべきなのです。食べ物のことで、兄弟の良心を破滅に追いやるようなことは悪なのです。結論としては、「疑いを感じる人が食べるなら罪に定められます。・・・信仰から出ていないことはみな罪です。」と述べています。私たちはキリストにある自由を与えられました。しかし、その自由をある場合は、兄弟姉妹に躓きをあたえないためには、自由を行使しないという選択も大事なのです。

清宣教師