昨日の最後の部分、3章22節―23節では、「パウロであれ、ケパであれ、・・・すべてあなたがたのものです。」とパウロは言いきっています。つまり、主イエス様につくものとされたあなた(クリスチャン)のために、主はパウロもアポロも(あなたに福音を伝えるしもべとして)、主はあなたのもとに遣わされました。すべてはあなたのものなのです。そこで、パウロは、「こういうわけで」と4章1節を始めています。主なる神様は、神のこどもとされたあなたのために、すべてを用意し、与えて下さったのです。しかし、私たちは、キリストのしもべであり、神の管理者なのです。ここでパウロがいう「しもべ」とは、昔、ローマの時代に三段オールのガレー船の船底でオールを漕いで船を走らせていた「奴隷」を指すことばです。キリストが指し示す方向へ、船を漕ぐ、しもべなのです。また、管理者とは、昔の「家令」を指すことばです。つまり、家や財産の管理全体をまかされ、家全体を切り回す、使用人のことです。確かに、私たちは主からすべてのものを与えられていますが、一方で、私たちは「キリストのしもべ」あるいは「キリストの家の家令」として、キリストのために忠実に仕えることが要求されています(4章2節)。ところで、神の家(教会)のなかでも、いろいろ批判をうけることがあります。ここで、1節の「私たち」という表現から、3節以降の「私」という表現に変わります。つまり、パウロ自身のことを語っていることが分ります。(パウロは、コリントの教会の中で、もろもろの批判を受けていました。例えば、パウロには使徒の資格がないとか、そういう類の批判です)。しかし、パウロは言います。「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません」。すべての人が直面しなければならない3つの裁きがあります。第1に、他人による裁きです。第2に、自分による裁きです。第3に、神による裁きです。パウロは、神の裁きだけが究極の真実の裁きであるから、他人からの裁きや自分自身の裁きに対して気に留めないことにしているのです。もちろん、だからと言って、それで無罪とされるものではありませんが、真実の裁きをなさるのは、神のみですから、その方に委ねて、他人や自分の判断で一喜一憂することはないというのです(4節)。ただ、忠実に仕えるなら、最後には、神様から賞賛をいただくのです(5節)。肉に属するクリスチャンは、人を裁き、仲間を増やしたがります。ある人たちは、あなたを王様のようにもてなし、言葉巧みに、心を盗みます。しかし、もし、同情のことばや優しいことばに心を奪われたら、真実を判断することが出来なくなってしまいます。あなたはキリストのしもべ、神の奥義の忠実な管理者として選ばれたのですから、神ご自身の力の現われをみることが必要です。「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(20節)。私たちは御国の世継ぎです。御国に入るにふさわしくするために、聖霊様は力をもって、全力を尽くして、日々、私たちの内なる人に働き、御子の似姿へと形づくってくださっているのです。アーメン。

清宣教師