1節~5節は、愚かに見える宣教の方法について述べています。6節~16節は、神の知恵とこの世の知恵について述べています。当時コリントは、アテネの都市よりも栄えており、学問も、哲学も盛んな都市でした。1節の「すぐれたことば」とは雄弁学のこと、「すぐれた知恵」とは哲学のこと。4節の「私のことば」とは個人的な会話や個人伝道のこと、「私の宣教」とは群衆を前にしたメッセージのこと。7節の[奥義]とは、永遠の昔から隠されていた神の知恵のこと。9節の「目が見たこと」とは観察のこと、「耳が聞いたこと」とは学問のこと、「人の心に思い浮かんだこと」とは思索のこと。人が福音を信じるのは、説得力のある学問や知識によるのではなく、御霊の導きによるのであるから、私たちは、御霊に教えられて語ることが大事です。また、それを聞いた人が福音を信じるかどうかは、その人が御霊の導きをうけているかどうかにかかっています。その人が、この世の知恵で理解しようとするなら、十字架の福音は愚かなものにしかみえません。しかし、御霊に導かれて理解しようとするなら、十字架の福音は素晴らしい救いとして理解されます。私たちの技巧や知識ではなく、御霊に満たされて語ることが、とても大事なことです。福音を伝えるには、御霊により頼んで、単純に自分が見たこと、聞いたことを証しすることです。こんな話があります。イエス様は、私たちに弁護士の仕事を頼んだわけではありません。弁護士は司法試験を受けて法律をくまなく知らなければなりません。ところが、私たちは、あたかも弁護士を頼まれたかのように錯覚して、神学校に入り、聖書を完全に理解してから伝道しようと思う事があります。それは違います。イエス様が私たちに頼まれたのは、イエス様の復活の証人となることでした。裁判で証人になるには、弁護士のような法律の知識がなくても大丈夫です。ただ、日ごろの生活で、嘘をつかない人であることが大事です。いつも嘘をついていると、証人として信用されません。証人になるには、聖書の全部に精通していなくても大丈夫です。ただ、普段の生活で信用される生活をすることです。そして、見たこと、聞いたことを証しするだけです。あなたもキリストの証人です。昨日、例に挙げた創価学会の人たちは、合理的に考えて、十字架に秘められた神の奥義に気付くことが出来ませんでした。生まれつきの人には悟ることが出来ないのです。御霊に拠らなければ、神の啓示を理解することが出来ません。「神のみこころのことは、神の御霊のほかには誰も知りません。」(11節下句)。ところが、私たちクリスチャンは、この世の霊ではなく、神の御霊を受けたので、恵みによって神から受けた素晴らしい神からの賜物の真価を知ることができるのです。十字架の意義を知った時の感動、心の芯からあふれ出る感動の涙、罪赦された者の全き平安、これらの恵みを知ることができたのは、内なる御霊の啓示をうけてのことでした。主に感謝します。

清宣教師