さて、12章から14章は、御霊の賜物について記しています。きょうの12章は、とくに御霊の賜物と教会の一致について述べられています。きょうの個所を読んで、賜物にはいろいろな種類があり、お互いにそれを認めて、支え合うことが、主のご計画であることを、再認識しました。御霊は、私たちを、生ける神に仕えるように導いて下さいます。そして、御霊は、個々人に働かれます。その結果、人により、御霊の賜物は異なることになります。御霊の賜物だけでなく、奉仕にも、働きにも、それぞれ種類があります。創造主なる神は、それぞれの人格にふさわしい、賜物や、奉仕や、働きを備えて下さるのです。それは、「同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」(12章11節)。つまり、人の考えではなく、主がお決めになったことなのです。だから、間違いはないのです。これらの賜物は、個々人のためにあるというのではなく、からだ全体のためにあるのです。パウロは、目や耳や、足や手などの体の各器官の働きを通して、ひとつの体が生きていることを示すとともに、各器官だけでは生きられないことを示しています。ひとつの体には、いろいろな器官があり、それぞれ、いろいろな働きをしています。しかし、各器官だけでは生きていけません。それらはお互いに助け合い、ひとつの体として働いています。同じように、教会はキリストのからだであり、それぞれのクリスチャンは各器官なのです。それぞれのクリスチャンが、どの器官として働くことになるのか、それを決められるのは、創造主なる神です。「しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官をそなえて下さったのです。」(12章18節)。だから、自分の働きをさげすんだり、あるいは、他の人の働きを妬んだりしてはいけないのです。みんなが神様のみこころを尊び、お互いの存在を認めて、協力し合うように勧められています。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(12章27節)。教会には、神がおたてになった働き人が必要です。使徒、預言者、教師などなどです。しかし、各器官は、一人では生きていけません。目がどんなに重要であっても、体から1ミリでも離れたら、いのちを失います。「あんたなど必要ない」などと高ぶってはならないのです。逆に、「わたしなど必要とされていない」といじけることもあってはならないのです。私たちはみな、主イエスによって体の一部、ひとつの器官として召されたのです。みなが同じ賜物をもっているわけではなく、異なる賜物をもって、キリストに仕えるのです。現実には、コリントの教会と同じように、私たちも教会生活を続けるうちに、お互いに比較したり、裁いたりする誘惑があります。これを放っておくと、いつのまにか、キリストの体である教会に穴が開いてしまいます。最初はほんの小さな穴ですが、放っておくと、知らぬ間に、大きくなっていくのです。機会あるごとに、このコリント第1の12章を読んで、自分の考え方、立ち位置を確認する必要が在ります。主はあなたを召してくださいました。キリストの体のひとつの器官としての賜物を与えて下さいました。あなたとわたしは、ひとつです。ひとつのからだに属する家族です。そこに優劣の入る隙間はないのです。

清宣教師