さて、9章ですが、1節―18節で、パウロは自分自身の働きについて弁明しています。なぜなら、コリントの教会には、いろいろなクリスチャンがおり、あるクリスチャンは、パウロは他の使徒たちのような12使徒のひとりではなかったこと、また、イエス様と直接、お会いしていないことなどを理由に、本物の使徒ではないと主張したり、あるいは、他の使徒たち(ペテロやヤコブたち)のように、教会からの支給で生活しておらず、自分で働いて生活を支えていることなどを理由に、本物の使徒ではないと主張していました。本物の使徒ではないということは、偽使徒であるという主張です。これに対して、パウロは自分はイエス様にお会いしたし、実際に、コリントの人たちこそ、わたしの働きの実ではないか、というのです。他のクリスチャンに対しては使徒であると主張できなくても、少なくとも、わたしの使徒としての働きの実である、コリントの教会のクリスチャンに対しては、わたしは使徒であると主張することができるはずです。私は、他の使徒たちと同じように、伝道旅行に信者である妻を同行したり、生活のための働きをやめて、教会から生活給を支給してもらう権利があるのです。しかし、そうしないで、自分で働き、自分で生活を支えているのは、人から強いられてしていることではなく、自分からそうしていることであって、権利がないからではなく、権利があっても、それを用いないことが、私の誇りであり、自分の生き方として自分で選んだことなのです、というのです(14節-15節)。19節―23節では、福音を伝えるために、私はユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のようになり、すべてのひとに、すべての人のようになりました、とパウロは主張します。なんとかして、幾人かでも救うためです。つまり、私はすべてのことを福音のためにしています、とパウロは言います。ここにクリスチャンの生き方の模範を、パウロは示しているのです。24節―27節では、福音のために生活しているパウロですが、それでも、自分自身が落伍者にならないように、いつも注意していることを明らかにしています。それをスポーツの競技にたとえて説明しています。競技場で走る人たちはみな賞を受けるのではなく、最後まで走り抜き、一番になった人だけが賞をうけるのです。ですから、パウロは、私はいつも決勝点がどこにあるかを意識して生きていると言います。天の御国で朽ちない冠をうけるためです。それは、私たちは救いを受けていますが、救いを受けた者にふさわしく歩み抜いた人たちだけが冠を得るからです。ですから、私は自分のからだを打ちたたいて従わせます、パウロは言います。もちろん、パウロは、自分一人が冠を受けると主張しているのではありません。テモテへの手紙、第2、4章8節を御覧下さい。そこには次のように記されています。「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けて下さるのです。」。救われた者が、救われた者にふさわしく生活して、人生を終える時に、天の御国における義の栄冠が待っているのです。ご自分を低くされて歩まれたイエス・キリストの模範にならって、使徒パウロは歩んでいるのです。最大の敵は、自分自身の自我であること、確かにその通りです。キリストはそのために十字架にかかって下さいました。私たちはキリストと共に十字架につけられて死んだのです。

清宣教師