コリント人への手紙の第2に入りました。このコリント人への第2の手紙に関しては、もともとは一つの手紙ではなかったという人もいます。例えば、1章~9章が、本来の第2の手紙であって、10章~13章が、第2の手紙より前に書かれた「涙ながらに」書かれた手紙ではないかと考えるひともいます(2章4節参照)。その根拠の一つとして、そこに記されている思想や考え方に相違があるということです。しかし、パウロが記した時に、必ずしも一息で書いたとは限らないので、筆をおいて2,3日経過してから、改めて、自分の考えをまとめて書いたとも考えられます。一人の人の手紙であっても、前半と後半で、書き方に変化があっても不思議ではありません。ここでは、いま、私たちが手にしている通りに、第2の手紙は、このままの順序で記された、ひとつの手紙であったと考えます。ところで、この手紙を読む前に、執筆に至る状況を理解しておくことが大事であると思われます。そこで、注解書を参考にして、概略を述べたいと思います。パウロは、第3回伝道旅行で、エペソ滞在の終わりが近づいたころ、コリントの教会でのトラブルを聞いて、エペソからコリントの教会に宛てて、1通の手紙を出しました。それが、コリント人への第1の手紙でした。コリントの教会は当時、多くのトラブルを抱えていました。パウロの手紙によって、一部は解決されましたが、完全な解決までには至らず、火種は残り、内紛が続いておりました。その内容としては、パウロの指導に反対する勢力が、パウロの使徒権に対して疑義を唱え、教会が大揺れに揺れておりました。そこで、パウロは、みずから、海を渡り、短い期間、コリント教会を訪問して、かなり厳しい方法で問題の処理を試みたようです。そのことがコリントの教会の人たちを悲しませ(2章1節)、そのうえ、パウロ自身も大きな痛みを覚えたようです)。それで、パウロは1通の手紙を書きました(2章4節参照)。この手紙は現在、残っていませんが、かなり厳しい内容であったようで、パウロは、コリントの人たちの応答について、かなり心配していました。それで、コリントの教会から返事をもって帰って来るはずのテトスがなかなか、帰ってこないので、パウロはエペソからトロアスに行きました。しかし、そこでもパウロはテトスに会えませんでした。そこで、パウロは、テトスの帰りが待ちきれずに、マケドニアまで出かけて行きました(2章12節、13節参照)。そして、そこで、パウロは、ようやく、テトスに会うことが出来ました。その報告の内容は、コリントの教会の大多数の兄弟姉妹が、悔い改めたというものでした(7章5節-16節参照)。その報告を聞いて、大きな喜びに満たされて書いたのが、このコリント人への第2の手紙ということです。しかし、問題を蒸し返す人たちもいたので、あらためて、悔い改めを促したのが10章~13章の内容であると考えられます。さて、2節~11節(とくに3節~8節)において、「苦しみ」あるいは「苦難」ということばが8回も登場します。苦しみや苦難がある現状について述べています。しかし、なんと、「慰め」ということばが、10回も登場します。苦しみにまさる、神の慰めがあることを強調しています。苦しみのあるところ、必ず、神の慰めがあります。12節~24節では、パウロが以前、コリントの教会を訪問すると約束したにも関わらず、訪問しなかったことが、コリントの教会では大問題に発展していたようです。私たちからすると、どうして、そのようなことが大問題になるのか理解できない部分ですが、反対派の人たちが、これを問題にして、パウロは言っていることと行いが一致しないと主張して、それをパウロが伝えている福音にまで拡大して、パウロが言っている福音も、信用できないものであると主張して、これが、かなり、コリントの教会の中に浸透してしまったようです。パウロは、12節~22節で、訪問しなかったことについて弁明しています。その内容は、充分に考え抜いた結果であって、訪問を延期したことは軽率なものではなかったこと、コリントの人たちの信仰を支配しようとするのではなく、コリントの人たちに十分に考えて、みずから、立ち直る時間をあたえるためであったと述べています。だから、パウロが宣べ伝えた福音にも偽りはなく、すべてが真実であると述べています。ところで、現在もいろいろな教会があり、さまざまな問題が起こります。だからといって福音に欠陥があるのではありません。私たち人間の中に古い生き方があるので、問題を起こしてしまいます。しかし、主は、必ず、解決の道を備えておられます。

清宣教師