さて、今日の箇所も、素晴らしい個所です。私たちの霊は、この世では仮の住まい(天幕)である体をまとっています。それで、病気や痛みなど、いろいろな苦悩を負っています。しかし、やがて、天の御国に入るときには、新しい永遠のからだ(神の下さる永遠の家)をまとうようになります。その保証は聖霊様です。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。」確かに、私たちの霊は、肉体をまとっているので、肉体のゆえに、主と交わり、お互いに交わるときに、かえって、邪魔されてしまいます。しかし、それゆえに、私たちは見るところではなく、信仰によって見えないものを見るようにして歩みます。「私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」

私たちは、目に見えないキリストの愛に囲まれて生きています。だから、私たちは目に見えないキリストを仰ぎ見て生きるのです。人間的な標準でお互いを知るのではなく、キリストによって新しく創造されたクリスチャンとして、お互いを見るのです。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」そして、神は、私たちをキリストの大使(使節)として世に遣わしてくださいました。「私たちはキリストの使節なのです。」

清宣教師