昨日の5章21節では、私たちは、罪の中にとどまり、神様に敵対していた反逆者でしたが、一方的な父の愛により、御子の犠牲(贖い)を通して、私たちに父なる神との和解の道を開いて下さいました。「神は、罪を知らない方(御子)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(5章21節)。それに続いて、パウロは心を込めて勧めています。「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みを無駄にうけないようにしてください。」(6章1節)。父なる神様の愛、そして、御子イエス様の恵みの大きさを思う時、パウロは、神のしもべとして、この神の愛と恵みに満ちた救いを、ぜひ、すべての人々が受け入れて欲しいと、ひたすら願うのです。このような途方もない愛と恵みに満ちた神の救いを、すべての人々が受け入れて欲しいのです。父なる神と御子の心を思う時に、パウロは、神のしもべとして、どんなことがあっても耐え忍ぶと心に決めていたのです。パウロは神のしもべとして、すべての機会を用いて、キリストについて証しをしました。パウロは、非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、喜んで耐え忍びました。鞭うたれた時、入獄した時、暴動に追い込まれた時、強制的な労役を課せられた時、徹夜を強いられた時などなど、すべての状況下において、神のしもべとして福音を宣べ伝える使命のために、すべての状況を受け入れ耐え忍びました。また、そのような状況の中で、人から誉められたり、人からけなされたり、さまざまな扱いをうけてきました。パウロは、孤独の中でも、刑罰を受けても、悲しみの中でも、貧しくても、神のしもべであることを自覚して、いつも喜び、いつも、新しいいのちに生きてきました。パウロは、神のしもべとして、多くの人を富ませる者としての自覚をもって歩んできました。パウロは、何ももたないようでも、すべてのものを持っているという自覚の中で生きてきました(3節―10節)。11節―13節では、パウロは、コリントの教会の人たちに対して、心を開くようにお願いしています。一度は、人間関係がギクシャクしてしまいましたが、パウロは、自分は自分の子どもに対するように心を開いています。だから、あなた方も心を開いて下さいとお願いしているのです。実際、コリントの人たちは、パウロの伝道によって救われた霊の子供たちであり、パウロは霊の父だったのです。主にある関係の中へと、両者が導かれて、互いに心を開いて理解し合うことが出来るように願ったのです。14節―7章1節では、突然、話題が変わります。パウロは、コリントの教会の兄弟姉妹たちに対して「汚れから離れよ」と強く勧めます。キリストとべリアルとに、なんの調和があるでしょう。べリアルとは、元来は無価値、邪悪の意味ですが、ここでは、それを人格化したサタンを指していると考えられます。まことの神とサタンとの間、信者と不信者との間には、一致がないことを自覚して、すべての汚れから離れるように勧めています。クリスチャンとは、聖霊の宮であり、父なる神の子どもなのですから、この世の支配者であるサタンの奴隷としてではなく、たといこの世においても、父なる神の息子、娘として生きるのが、クリスチャンとしてのふさわしい道です。パウロは、続けて、「ですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を畏れかしこんで聖きをまっとうしようではありませんか。」(7章1節)と結論付けています。きょうも、主の御霊が、私たちの霊と共におられて、私たちが神の御子キリストのように、父なる神を完全に信頼し、まわりの状況の奴隷になることなく、過ごすことが出来ますように。また、神の息子、娘であることを自覚して、一瞬、一瞬、相手の言動に動ずることなく、主の御霊の満たしの中で、祈りましょう。主よ、キリストの血潮によって覆って下さい。勝利を与えて下さい。キリストにある平安と喜びと愛で満たして下さい。

清宣教師