8章1節―9節では、献金について触れています。パウロが献金のことを「与えられた神の恵み」(1節)と呼んでいます。あるいは、「交わりの恵み」(4節)、「この恵みのわざ」(6節、7節、19節)と呼んでいます。マケドニヤの教会から、エルサレムの信仰の同胞を助けるための献金です。マケドニヤの教会の人たちは、極度の貧しさにもかからわず、惜しみない献金を捧げたのです。それにしても、この「恵みのわざ」という表現は、献金に対するクリスチャンの基本的な姿勢として、とても大事なことを教えているように感じました。私自身、献金を恵みのわざと呼んで実行できるように願っています。さて、「恵みのわざ」という言葉の通り、これは強制されてするものではなく、自発的になされたものでした。また、それは、秩序をもってなされました。つまり、各自が持っているものの中から捧げたのです(11節、12節)。借金したり、他の人のお金を用いてするものではありません。主がその人に与えて下さっているものの中から捧げるということが、正しい秩序です。それは結果的に、誰かが欠乏することになるのではなく、お互いに、余裕のあるものが、欠乏している者の欠乏を補うかたちでおこなわれるものです(13節―15節)。後半の16節―24節では、マケドニヤ教会からエルサレム教会への献金については、神の前ばかりだけでなく、人の前でも公明正大に行う必要があると述べています。それで、パウロは、テトスと一緒に、諸教会の信任を受けた、もうひとりの兄弟を立てて、複数の証人のもとに、この献金を送ることにしました。教会の会計に関しては、決算報告、さらに、その監査など、誰に対しても説明できる、公明正大な方法でなされる必要が在ります。これも、献金を扱う上での正しい秩序のひとつです。当時、パウロに対して「マケドニヤの諸教会から金を奪っている」(11章8節)という批判や、「だまし取った」(12章16節)という中傷がありました。それだけに、パウロは、慎重に、事を進めています。このように具体的に、指針が明示されているにもかかわらず、必ずしも、すべての教会で実行されているわけではありません。バプテストの教会は会衆制なので、この点については、きちんと実行されているようです。

清宣教師