3章1節―3節は、使徒としての推薦状のことについて記しています。当時、エルサレムの教会から推薦状をもらう人もいたようです。コリント教会にいた偽教師たちは、そのような推薦状を手にしていたようです。パウロは、それに対して、コリント教会の兄弟姉妹こそ、パウロが使徒であることの生きた推薦状、生きた証人である、というのです。パウロの使徒としての働きの結実は、生ける御霊によってコリントの兄弟姉妹の心に書かれており、誰か偉い人が書いた推薦状は不要なのです。そこから、話題を新しい契約に仕える使命へと発展させています。4節―18節です。私たちクリスチャンは、新しい契約に仕える者となりました。そもそも、私たちは自分で主に仕える者となったのではなく、御霊の導きにより、この働きに召されたのです。主がその資格を与えて下さったのです。それは、これまでのような律法という書かれた文字に仕えるものではなく、御霊の働きに仕える者として召されたのです。石に刻まれた十戒は、人を罪に定める働きがありますが、御霊は人をいのちに導く働きをしています。ところで、十戒に仕えたモーセの顔には、神の栄光が残されていました。それで、人々は、モーセの顔を見つめることが出来ませんでした。そのために、モーセは、顔にマスクをして、やがて消え去る神の栄光を、人には見せないように隠していました。このような十戒という、人を罪に定める働きにも、神の栄光があったのですから、人を義に定める御霊のはたらきには、どれほどの栄光が伴うことであろうかと言います。しかも、この栄光はやがて消え去るべきものではなく、永続すべき栄光なのです。この新しい御霊の契約に仕える者の栄光はどれほどの素晴らしいものでしょうか。ですから、パウロは極めて大胆に振舞うことが出来るのだ、と語っています(12節)。残念ながら、伝統的なユダヤ人の多くは、心が鈍く、悟りがないので、十戒の古い契約が朗読される時、以前と同じように顔にマスクをつけている状態です。律法の消え去る栄光に満足しているからです。しかし、キリストが現われる時、そのマスクは取り除かれる必要があります。なぜなら、生ける神の御子の栄光の輝きが、御霊の働きを通して、私たちを鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えてくださるのです(18節)。きょうの個所で、特に、「文字は人を殺し、御霊は生かす」ということ、また、私たちは「石の板に書かれた文字に仕えるのではなく、私たちの心に書かれた御霊の思いに仕える」ということが、心に残りました。私たちの信仰生活の実行にあたって、注意すべき点であると思われます。さらに、御霊は、日々、私たちの内において、私たちの人格(霊)を、御子キリストと同じ姿に変えるべく、その働きをしてくださっているということ、これは、とても、大きな励ましです。きょうも、主の御霊が、私たちの内なる人を、御子の姿に似た者へと造り変えて下さいますように。キリストの平和と愛と喜びの心をもつ私へと造り変えて下さいますように。

清宣教師