1章では、冒頭から、「使徒となったパウロ」と大胆に語り始めました。ガラテヤの諸教会の中には、パウロの使徒職について批判する者たちが入り込んでいました。エルサレムから来たものたちだったようです。彼らは自分たちが正当な信仰の継承者であるように吹聴していました。パウロは12弟子の一人ではなく、その知識は12弟子たちからの受け売りであると批判していたようです。ですから、1章で、パウロは、真っ向から「自分が使徒である」と述べており、それも、12人の弟子たちからではなく、イエス・キリストと父なる神の召しによるものであり、福音は、直接、神から啓示されたものであると述べています。その上で、他の福音を伝えている偽使徒たちについて、呪われるべき者たちであると宣言したのです。さて、異邦人の宣教を開始するまえに、一度、エルサレムに上りました。そこで、エルサレムの指導者であったヤコブに挨拶したようです。それから14年後のことでした。2章1節です。パウロはバルナバと共にエルサレムに再び上りました(1節)。そこで異邦人たちに伝えている福音をエルサレムの指導者たちの前でプレゼンしました。自分たちがしてきた、また、いまもしている異邦人宣教の内容について詳細を知ってもらうためでした。それはあのエルサレム会議のことだったようです。その詳細は、使徒の働き15章1節~29節に紹介されています。主な論争の主題は、異邦人にも割礼を受けさせるべきかどうかでした。きょうの12節にも登場しますが、そこには割礼派のひとたちがいて、割礼を受けさせ、律法を守るべきであるとの強い主張をしていました。しかし、主の導きによりエルサレム会議では、異邦人たちに割礼を受けさせる必要はないとの結論に達しました。一致をみたのです。しかし、いま、再び割礼派のものたちが、ガラテヤの諸教会に律法の行いによる救いという偽りの福音を持ち込んでいたのです。それだけでなく、パウロがアンテオケの教会にいたとき、ペテロやバルナバまでもがエルサレムの割礼派の人たちを恐れて、異邦人たちとの食事の交わりを断つという偽りの行動をとったことについて、正々堂々と非難したというエピソードを紹介しています(11節―14節)。そして、再び、繰り返し、強調します。キリストの贖いによる完全な罪の赦しと義認だけが、救いの福音であり、そこに人間の行いによる義(律法による義)を持ち込むことは神の恵みを無にすることであり、キリストの死を無意味にすることである(21節)と明確に述べています。現在でも、私たちの救いを「恵み以外のもの」に導いたり、恵みのほかに「別のもの」を加えるような異端が忍び込んでくるのです。そして人間には絶対にできない、くびきを負わせるのです。「神の御子を信じる信仰」によってのみ、罪赦され、義とされるのです。その義は完全で、少しの不足もありません。

清宣教師