3章では、「ああ愚かなガラテヤ人」というショッキングな表現を用いて、ガラテヤの教会の人たちがいま、陥っている誤りに気付いてほしいと、と訴えています。偽使徒たちが語る「律法の行いによって義とされる」という教えは完全に偽りであり、惑わしであり、キリストによる十字架の救いを本質的に否定するものであることを、ハッキリと悟って欲しいと願って語っています。そして、3章全体を通じて、キリストの十字架の贖いを信じる「信仰による救い」のみが真理であることを悟って欲しいと、切々と訴えています。

主イエス様は、私たちのすべての罪を無条件で赦して下さいました。私たちは、そのことをただ信仰をもって受け入れたとき、赦しをいただきました。しかも、私たちが悔い改める前に、十字架の上で罪の赦しはなされていました。ただ、私たちがそれを信じたとき、自分のものとなりました。神様を驚かせるような良い行いをしたからでもなく、神様を感動させるような告白をしたからでもありません。ただ、私たちがそれを信じたとき、自分のものとなりました。約束の御霊を与えられたのは、律法を守ったからですか?いいえ、ただ、キリストの約束を信じたからです。私たちは、キリスト・イエスにあってみな神のこどもです。私たちの罪はキリストの上に置かれ、キリストの完全な義が私たちの上に置かれました。私たちはキリストの義の衣を着せられたのです。自分の行為によってなにかを得ようとすることは、キリストの死を無意味にすることです。ただ神の約束を信仰を持って受け入れるときにのみ、神様から与えられるのです。

これこそが、ユダヤ人も異邦人も、男も女も、すべての人を救う福音であり、こうして、みながキリスト・イエスにあって一つとされ、信仰による約束の相続人となるのです。キリストの十字架こそ、私たちの救いの旗印です。ここに解決があります。

清宣教師