10章から12章までは、パウロの使徒としての権威について記されています。パウロが不在の間に、偽使徒たちがコリントの教会を横道に誘い込んでしまったようです。パウロはそのため、偽使徒たちの主張が偽りであり、パウロ自身の権威が神からのものであることを明らかにする必要に迫られて、11章、12章で、パウロの使徒としての正統性を主張しています。ここでは、珍しく?強烈な皮肉に満ちた表現が含まれています。4,5,7,16,17,19,20,21節などです。あまり真面目にとると、真意が分からなくなってしまいます。パウロの心配は、いわゆる大使徒と呼ばれる偽使徒たちが、コリントの教会に入り込み、コリントの教会の信徒たちを騙して、混乱させている状況に強い憤りを持つと同時に、コリントの信徒たちが目覚めて、偽使徒たちの教えの本質を見抜いて、彼らをきちんと排除することを求めています。まず、前半の2節~15節ですが、コリントの教会の現状は、霊的には、蛇(サタン)がエデンの園でエバを誘惑したように、偽使徒たち(サタンの手先)がキリストの花嫁であるコリントの教会の信徒たちを誘惑し、キリストから引き離そうとしていることに気づくように求めています。偽使徒たちは、自分たちのことを大使徒としてふるまっていました。大使徒たちは、パウロの話が下手であるとか、パウロがコリントの教会から経済的支援をもらうことを拒否しているのは、使徒にふさわしくないことを自覚しているからである、とか難癖をつけて批判していました。それに対して、パウロは、自分がコリントの教会から経済的な支援を受け取らないのは、資格がないからではなく、現にマケドニア州のピリピの教会からは経済的支援を受けており、アカヤ州にあるコリントの教会から経済的な支援を拒否しているのは、コリントの教会の重荷になりたくないという親心であるとしています。もちろん、コリントの教会から経済的な支援を受ける権利があるのですが、その権利をあえて行使しないことが、パウロの誇りであるというのです。だから、これからも受け取る意思はないことを表明しています。それをもって、あの偽使徒たちと一線を画しているのだとも言っています。彼ら(偽使徒たち)はキリストの使徒でありません。ということは、サタンの手下である、というのです。キリストの使徒に変装しているのです。とても強い表現です。後半の16節~33節ですが、パウロは、愚か者としての自慢話として聞いてほしいという前提で話を進めています。つまり、これから話すことは肉的な誇りに属するものなので、普段は話したことがないけれども、あの偽使徒たちが肉的な誇りをもって語り、コリントの信徒たちがその肉的な誇りを聞いてすっかり、信用してしまったから、パウロも偽使徒たちと同じレベルで肉的な誇りを紹介しようというのです。偽使徒たちは、自分たちは神に選ばれたアブラハムの子孫であり、へブル人であり、エルサレム教会から遣わされた正統的なキリストの使徒である、と主張したのです。それで、パウロは彼らとあえて比較して、語っているのです。「彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、・・・・」そしてさらに続けます。「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。」パウロは、投獄、ムチ打ちの刑、死の危険、迫害、苦難の数々、それはみな、主のしもべとしての苦難の数々でした。最後に、ダマスコの代官がパウロを捕らえようとしたとき、城壁の窓から吊り下ろされて、ようやく脱出したような弱い存在であるにもかかわらず、こうして、今もって福音宣教の御用に用いられているのは、まさに、主のしもべとしての証しである、というのです。アーメン。

清宣教師