パウロは、コリントの教会へ、3度目の訪問をしようとしています(13章1節)。「すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。」(2節)と突然、切り出していますが、これは律法における証人に関する規定でもあり、教会内での証人に関する規定のことを指しています(申命記19章15節、マタイの福音書18章16節)。つまり、3度目の訪問の際には、正規の手続きを踏んで、事実を明らかにし、罪が明らかとなった時には、パウロは使徒権を発動して、罪を犯している人たちに対して戒規を執行すると宣言しています。「あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。」(2節)とも述べています。それはそれとして、ともかく、パウロの願いは、コリントの教会の兄弟姉妹が、それぞれ聖徒にふさわしく、「正しい行いをしてもらいたい」(7節)ということでした。「私たちはあなたがたが完全なものになることを祈っています」とも述べています。パウロは、ひたすら、神のご計画の通りに、コリントの教会を築き上げたいのです。なぜなら、パウロは、神のご計画を熟知していたからです。「争い、妬み、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動」(12章20節)などは、キリストの教会とは全く無縁のもののはずだからです。それらのものを許している教会は、キリストのみこころを知らない教会なのです。パウロは、懇切丁寧に、コリントの教会を教え励ましています。手紙の最後は、「喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」(11節)と愛にあふれた挨拶で締めくくっています。そして、最後に、今では全世界の礼拝の最後に引用されている、祝祷で閉じています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとありますように」(13章13節)。いつも主日の礼拝の最後に牧師が祝祷して下さいますが、その原型がこのコリント人への手紙、第2の最後に記されています。祝祷の最後のことばが、「あなた方と共にありますように」と終わる場合と「私たちの上にありますように」と終わる場合のふたつのケースがあります。前者は、王や預言者の職務としての宣言であり、後者は、祭司職としての働きを意識しての祝祷であると考えられます。

さあ、これでコリント人への手紙も、第1、第2とすべて完了しました。いつものことですが、始めがあり、終わりがあります。この地上では、どんなことにも、始めがあり終わりがあることは感謝です。仕事も、家事も、育児も、介護も、人生もみな、終わりがあります。それぞれの労苦が報われる時がきます。いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。きょう、聖霊様の満たしが、お一人おひとりの上にありますように。

清宣教師