もし、兄弟姉妹の中に何か間違いがあることが分かったとしても、御霊の人であるなら、柔和な心でその人を正してあげるように、と勧めています。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけるように諭しています。せっかく、主が兄弟姉妹として共に歩くようにセッティングしてくださったのですから、非難の応酬で仲たがいしないように、柔和な心で正してあげる心構えが必要です。つまり、「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」ということが原則です。「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」と言います。私たちの欠点は、お互いの間で比較することです。しかも、自分の長所と相手の短所を比較するのです。こうなると、自分は絶対に悪くない、という結論しか出てきません。でも、これは不公平な比較です。この罠から逃れることは難しいです。だからこそ、御霊による柔和さが必要とされます。相手の長所と自分の短所を比較するような心の余裕があれば、正しい結論を得ることが出来ます。さて、2節には、『互いに重荷を負い合うこと』が、主のみ心であると示されています。一方、5節には、『負うべき自分の重荷がある』とも述べています。互いに負い合うべき重荷と、自分だけ負うべき重荷の二種類があるようですね。夫婦が互いに負い合うべき重荷もありますし、しかし、夫や妻がそれぞれ、自分だけで負うべき重荷もあると考えられます。何でも、重荷を負い合うべきであるとの視点は間違っているようです。それぞれが自分で負うべき重荷があり、互いに負うべき重荷がある、というのが主の御計画のようです。それは、男性と女性、牧師と役員、上司と部下、先生と生徒などなどの間でもいえることだと思います(1~5節)。つぎに、「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」(6節)と勧められています。福音とみことばを教える教師とを軽んじることなく、教えられた人は、正しい応答が求められています。御霊の導きに従って福音を重んじ、教師を重んじることです。そのとき、永遠のいのちを刈り取ることになります。しかし、肉のちからで福音と教師を軽んじて、自分たちの力で律法をまっとうしようとする者たちは、永遠の滅びを刈り取ることになります。同様に、蒔いた種は必ず刈り取ることになります。例えば、信仰の家族の間で、愛のわざや善いわざという種を蒔くなら、必ず、刈り取るときがきます。多くの犠牲と忍耐を要するものですが、この地上に生きている限り、愛のわざ、善いわざを蒔き続けることが、天の御国で花を咲かせ、豊かな実を結ぶ人生につながるのです(6~10節)。さて、ここで、パウロは、手紙を終える前に、あえて、「私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています」と述べています。「大きな字」でとは、「大きな声」で語りたい気持ちを表しています。つまり、パウロは、これまでも何度か割礼の問題を取り上げてきましたが、手紙の最後に、もう一度、この割礼の問題について、声を大にして伝えたいことがあるというのです。それは、第1に、割礼を強制する人たちは、肉の人であり、偽教師、偽使徒たちであること、第2に、割礼を受けているか否かは外面のしるしであり、神の前には意味がないものであること、第3に、御霊による焼印こそ、キリストによる新しい創造のしるしであり、この内面的なしるしこそ、神の前に意味があることを明らかにしています(11~17節)。大事なことは、外面ではなく、実質です。つまり、内面がキリストの新しいいのちによって変えられ、成長することです。最後に祝祷で閉じています(18節)。しかし、パウロの祈りは、ここで終わるのではなく、このあとも、日々、祈り続けていくのです。それが、牧会者としての生き方なのです。アーメン。

清宣教師