1章で述べましたが、ガラテヤ人への手紙の構成について復習します。1章と2章は、パウロが自分の使徒職は、神の選びによるものであること、そして、パウロが伝えた福音こそ、唯一の福音であることを論証しています。3章と4章は、ユダヤ主義、律法主義に逆戻りしようとしていたガラテヤの教会に対して、パウロは神の救いの計画を旧約聖書の中から解き明かし、神の恵みの中にこそ、留まるように訴えています。そして、今日から始まる5章と6章では、古い自分に死んで、御霊によって生きる新しい人生、つまり、互いに愛し合い、キリストの律法を完成する生活を徹底するように勧めています。というわけで、今日の箇所も素晴らしい真理に満ちています。さて、1節に「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」と語っていますが、これがこれまでパウロが語ってきたことの結論です。キリストを信じる信仰による義は、完全であり、御国に入る市民権を与えるものです。ところが、割礼を受けることが市民権を得るのに絶対必要な条件なら、もう一度、天国の市民権を得るために試験を受けなおさなければならないことになります。しかし、その道を選ぶことは、私は律法全体を守ります、という不可能な試験に挑戦することになるのです。こんな無益なことはありません(1節~3節)。律法によって義と認められようとしている者は、もはや、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです(4節)。そこにはあるのは絶望です。ただ、信仰によって罪を赦していただき、御霊によって義とされることだけが、唯一の救いの道です(5節)。もう一度、明確にしておきます。キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではありません。それは外面的なものであり、内面的なものではありません。聖なる神の前で大事なことは、内面的なもの、『愛によって働く信仰だけが大事なのです』。ガラテヤの諸教会の信徒たちを惑わしている偽使徒たちの教えは、あの「パンだね」のようです。今でいえば、パンだねではなく、新型コロナウィルスという表現になったと思われます。どんどん悪い教えに感染させて、最終的に死をもたらす恐るべきものです。これに対処するには、取り除くことしかないのです(6節~12節)。あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと切り取ってしまうほうがよいのです。キリストは、あなたがたに自由を与えるために来られたのです。そして、その自由は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』というキリストの教えを実践する機会として用いるべきなのです(13節~15節)。つまり、『御霊によって歩みなさい。』ということです。何故なら、私たちのうちには、肉の欲望と御霊の願いがあります。そして、肉の願いは、キリストの願いに逆らうので、信仰者としての自分のしたいと思うことをすることができないのです。御霊に導かれる以外にクリスチャンとしての生きる道はないのです(16節~21節)。ハレルヤ!『御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。』。(22節~26節)。ここに、信仰者の人生の極意が、濃縮されています。肉によって歩む(人間中心の古い自分に固執した生き方)のではなく、自分の肉はキリストと共に十字架につけられたのですから、御霊によって歩む(御霊中心の神の子とされた新しい自分としての生き方)のです。ただただ、日常生活での実践あるのみです。

清宣教師