さて、1章27節~2章18節では、クリスチャンとしての生き方の原理について述べています。1章27節で、「福音にふさわしく生活しなさい」と命じたパウロは、具体的に、その内容について述べています。それは一致を保つ生き方です。不一致の原因は自己中心や虚栄です(2章3節)。それらのものを除くこと、そして、お互いに人を自分よりすぐれた者と思うこと、自分のことだけでなく、他人のことも顧みる生き方です(3節~4節)。その模範は、キリストの生き方に見ることが出来ます(5節~8節)。キリストは自分を低くして、十字架の死に至るまで、御父のみこころに従われました。それゆえに、御父は、キリストを高く上げられ、すべての口が「イエス・キリストは主である」と告白するように導かれました。御父のみこころに従順に生きること、それぞれ、自分自身の救いの達成を目指して、最後まで御父が与えてくださった志をやりとげることです(9節~14節)。父なる神は、私たちの内に働いて志を立てさせ、ことを行わせてくださるお方です。与えてくださった志を疑わずに、最後までやりとげることです。その時、私たちは純真なものとなり、傷のない神のこどもとして、世の光として輝くものとなります(15節~16節)。それでこそ、パウロが苦労して福音を伝えたことが無駄ではなかったことが明らかになるのです。たといパウロ自身は「注ぎの供え物」(殉教の死を表す)となっても、それは福音の前進のための記念碑となるのだから、私は喜びます。あなたがたも、私の殉教の死を悲しむのではなく、私と一緒に喜んで欲しいというのです。クリスチャンとは、「キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜っているのです」(1章29節)と述べたように、苦難をも覚悟する必要があります。しかし、幸いにも多くの場合、その苦難は孤独の中で耐えるのではなく、同労者を備えてくださるのです。パウロにとっては、テモテとエパフロデトという信頼できるクリスチャンが備えられていました。ローマの獄中にあるときも、愛弟子のテモテは、自分の身の危険も顧みず、パウロのお世話をして、パウロを助けていました。それは「子が父に仕えるように」(22節)と記されているように、親身になってのお世話でした。まずは、テモテを遣わすこと、あとになってパウロ自身もピリピに行けることを願っていると伝えています(19節~24節)。また、もうひとり、ピリピの教会から遣わされたクリスチャンの兄弟であるエパフロデトについて述べています。エパフロデトは、同労者として、戦友として、窮乏のときに仕えてくれたのでした。しかも、ローマの地で大病を患ってしまったのです。しかし、主の恵みによって癒され、回復しました。エパフロデトは、キリストのしごとのために、いのちの危険をおかしてまで、パウロに仕えた真の同労者だったのです。テモテとエパフロデトは真の同労者であり、その存在は、どれほどパウロにとって慰めとなったことでしょう。パウロは、獄中にあるパウロ自身の代わりにテモテを、そして、エパフロデトは、獄中にあるパウロのことを報告するためにピリピの教会に、それぞれ帰ることになるので、パウロは二人のために推薦のことばを書いていると思われます。パウロの温かい心配りが伝わってくるようです。

さて、新型コロナウィルスの影響で様々な不安と恐れが支配する状況の中で、テモテやエパフロデトのように、励まし、支え合う存在を目指したいと思います。「真実にあなたがたのことを心配している者」(20節)といわれるような存在でありたいです。

清宣教師