さて、3章は、異端に対する警告が記されています。3章1節―9節では、ユダヤ的な律法主義に対して警告しています。当時の教会は、旧約聖書を学び、安息日を守り、ユダヤ人の指導者に学ぶのが当たり前のことでした。そのような状況の中で、パウロの教えとは異なる教えを持ち込むユダヤ人の教師たちがいました。そのような教師たちの中には、パウロが伝えていた「キリストを信じる信仰による救いの福音」だけでなく、救いの条件として「旧約聖書の律法を守り、善行を行うこと」を付け加えるユダヤ教的な律法主義者たちがいました。それに対して、パウロは、『犬』と呼び、『悪い働き人』と呼んで、彼らにかかわらないように警告しています(2節)。パウロ自身が、厳格な律法主義者でしたが、そこには救いはありませんでした。ただ、信仰による義こそ、唯一の救いの道です(9節)。パウロは、割礼とか、外面的なものを頼みにする人間的な手段は、真の信仰を妨げるもので、今では損であることに気付いたのです(7節)。3章10節―16節は、神の栄冠を得るというテーマについて記しています。クリスチャンのイメージを絵に描くなら、いろいろなものがあります。ミレーの晩鐘もそのひとつです。一組の夫婦が、畑での農作業を終えて、教会の夕を告げる鐘の音と共に、1日の労働の感謝を捧げている絵です。ここでは、パウロは、競技場でレースを走る選手の姿を描いています。彼らは必死に、ゴールを目指して、走っています。彼らは後ろのものを忘れ、ひたむきに前に向かって走ります。キリストを信じる信仰によって、スタートラインに立っています。そして、最後まで、キリスト・イエスを信じる信仰の完成(ゴール)を目指して走り続けます。律法主義や、その他の異なる教えという脇道にそれることなく、ひたむきに、自分に与えられているコースを全力で走るのです。それは、死者の中からの復活というゴールでもあります(11節)。つまり、イエス・キリストの再臨の日に、神の前に立つということであり、また、そこで、「朽ちない冠」、「義の冠」を、主からいただくことです(14節)。クリスチャンとなったからには、途中で落伍したり、脇道にそれることなく、ゴールを目指して、信仰の人生を、いっしんに、走り続けるように勧めています。なお、16節では「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」と注意されています。あせって、人まねをして、先を急ぐなら転んでしまいます。あせらずに、自分の歩幅に応じて、一歩、一歩、進むことも大事なことです。3章17節―4章1節ですが、私たちの国籍は天にあることを、常に心に覚える必要があります(20節)。私たちの周りの人たちの価値観は、この地上のことだけです。うかうかしていると、その価値観に巻き込まれてしまいます。クリスチャンの世界観は、「私たちの国籍は天にある」という土台の上に成り立つものです。そして、世の終わりには、キリストご自身が再臨されます。そのとき、私たちのからだは、キリストご自身の栄光のからだと同じ姿に変えられるのです(21節)。その日、人間の功績や名誉や名声などは、すべて、無価値なものとなってしまいます。キリストを愛し、キリストを信じて生きた証しこそが、朽ちない冠となるのです。

さて、新型コロナウィルスの対策として有効な手段のひとつは、無限の英知をもつ創造主が私たちの身体に備えてくださった免疫システムです。皆様の免疫力がアップしますように、お祈りいたします。免疫力アップの秘訣は、感謝と賛美を捧げること、お腹を冷やさないこと、良い睡眠をとることなどです。とくに、ピリピ人への手紙で勧められている「喜び」は、最近の学術の成果として、免疫力アップの遺伝子のスイッチをオンにすると言われています。主の喜びに満たされますように、お祈りいたします。その反対に免疫力の遺伝子のスイッチをオフにするのがストレスであると言われています。家事であっても、仕事であっても、学びであっても、どんなときも、ストレスはあります。しかし、ストレスに支配されることなく、主を愛し、主に信頼し、主に賛美と感謝を捧げましょう。きょうの一日も、イエス様を愛し、イエス様に信頼して、「主にあって喜びなさい」(3章1節)というアドバイスに素直に従いたいと思います。

清宣教師