コロサイは小アジアのほぼ真ん中にあった町の名前です。私たちになじみの深い大都市エペソの東、ほぼ150キロメートルに位置していました。昔は、ペルシャのクロス王が西方遠征の時の基地になったほどの東西交通の要所として栄えていた町でした。しかし、このコロサイ人への手紙を書いたころのコロサイは、その繁栄はすっかり過去のものとなっていました。このコロサイの教会を開拓して、立ち上げたのはパウロではなく、コロサイ出身のエパフラスによるものと考えられています(1章7節、4章12節、13節参照)。おそらく、エパフラスは、囚われの身であるパウロのもとを訪問して、コロサイの教会の成長ぶりや現状を伝えたものと思われます。その中で、異邦人が多数を占めるため、道徳的な腐敗や、さまざまな思想が教会に入り込んでいるという報告があり、パウロはコロサイの教会のクリスチャンに対して、信仰や生活のあり方を教える必要があり、この手紙を書くに至ったと思われます。1節、2節は、始めの挨拶、そして、短い祝福の祈りが記されています。3節―8節では、パウロは本題に入る前に、コロサイの教会の良い点を指摘してほめています。「キリスト・イエスに対する信仰」そして、「すべての聖徒に対する愛」です。そして、「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び拡がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」と記すことにより、他の教えにまどわされることなく、伝えられた真の福音にのみ立つように、注意を喚起しています。9節―12節では、パウロは、コロサイの教会のことを聞いた日から、ずっと、コロサイの教会のために祈ってきたと記しています。その祈りとは「あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされるように」という祈りであり、「主にかなった歩みをして、・・・実を結び、神に関する知識が増し、強められて、感謝の生活ができるように」との祈りでした。13節―14節では、神の御子による救い、贖いについて述べています。私たちは、罪を赦され、解放され、暗闇の圧政のもとから、神の御子キリストの支配のもとへと移されたのです。15節―20節では、御子キリストによる救いは、神の創造と救済の遠大なご計画であり、その計画のなかで、神の御子は唯一無二の卓越した地位を占めていることを明らかにしてます。まず、15節―17節では、御子と万物の関係(宇宙論)、そして、18節‐20節で、御子と万物の救いの関係(救済論)を展開しています。つまり、神の御子キリストは、万物よりも先に存在し、万物は御子によって造られ、贖われたのです。天にあるもの地にあるもの、見えるものも見えないものも、すべてのものは御子によって成り立っているのです。なぜなら、「御子は、見えない神のかたち」(15節)だからです。21節―23節は、この素晴らしい御子キリストの贖いに、あなたがたもあずかっているという事実を指摘して、「あなたがたも、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません」と強く、勧めています。信仰の人生も、ぼんやりして生活していると、いつのまにか、ぼんやりしたものとなってしまいます。しっかりとした土台の上に堅く立って、真の福音の望みから外れることのないように、踏みとどまる決意が求められています。24節―29節では、パウロは、福音宣教に伴う苦しみについて、自分は喜びとしていると表明しました。それは、キリストのからだのために、避けられない苦しみなのです。福音が伝えられて、ひとりひとりが、キリストにある成人として成長するには、避けられない苦しみなのです。しかし、この苦しみは、奥義を知る時に、喜びとなるのです。奥義とは、旧約の時代には隠されていた神のご計画です。しかし、新約時代に入り、その隠されていた神のご計画があきらかにされたのです。つまり、神の御子の十字架による万物の贖いの計画です。そして、ひとりひとりが、キリストにある成人として、神の似姿に変えられるという計画です。この福音は、人々をサタンの支配から救い出すだけでなく、ひとりひとりを御国の住民として、キリストにある成人として成長させることでした。いま、新型コロナウィルスの影響で礼拝も他の集会も自由に集まることが出来なくなっていますが、私たちは成長することを求められています。キリストにある成人とは「神の視点から物事を見ることが出来、キリストにあってすべてを判断し、対応することのできるクリスチャン」となることです。いまこそ、戦後、最大の危機といわれる状況の中で、私たちがしっかりと、判断し、対応することが求められています。

清宣教師