3章に入りました。1節では、もしあなたがたがキリストと共によみがえらされたのなら、もはや、地上のものを思わずに、天にあるものを思いなさい、と勧められています(1節~4節)。キリストと共に十字架に付けられた者は、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼりなどは、十字架上で殺されたものとして処理するのです。同様に、怒り、憤り、悪意、恥ずべきことばも捨ててしまうように命じられています。つまり、キリストと共に十字架につけられて、古い人は墓に葬られたのであって、臭くなっている死体を掘り返してはならないのです。キリストと共に新しい人として復活したのですから、新しい生き方をすることがクリスチャンにはふさわしいのです。つまり、クリスチャンとは、生まれつきの古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着た人なのです。青い葉の上を這いずり回っていた幼虫が蛹となり、やがて時が来て脱皮して羽化します。いったん蝶々になったなら、もはや青い葉の上を這いずり回ることはふさわしくありません。青空を自由に飛び回ることがふさわしいのです。同じように、キリスト共に復活して、新しい人となったクリスチャンにふさわしい生き方があるのです。それは以前の古い人のように、自分の感情のおもむくままに怒ったり、恥ずべき言葉を他人にぶつけることではありません。むしろ、成長して造り主のかたちに似せられてますます新しくされて成長するのです。だれであれ、キリストの十字架と葬りと復活を信じるなら、みなその恵みにあずかれるのです(5節~11節)。造り主のかたちに似たものとなるとは、どんな人になることなのでしょう。その人は、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であることを自覚して、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着ける人です。これらの品性は、隣人との関係のなかで現れるものです。教会の兄弟姉妹との付き合いのなかで、気が合わない人、意見のことなる人、付き合うのに神経を使う人、なかなか好きになれない人、上から目線で見る人など、との間でこそ、発揮される品性です。さらには、もっとひどい自己中心的な人、自分勝手な人、攻撃してくる人などに対して発揮されるべき品性です。さらには、「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」といわれるほどに、「絶対に赦せないと思われる人」に対しても赦すことができる品性です。つまり、神の愛(アガペの愛)を身に着けるように勧められています(14節)。続いて、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。」(15節)と勧められています。原語の意味は、「この平和を、私たちの心の審判者にしなさい」という意味です。教会の兄弟姉妹との関係においては、平和の源であるキリストに入っていただいて、互いに心の中を点検し、平和で満たしていただきなさい、ということです。そして、最後に「感謝」を身に着けることです。新しいいのちは、感謝を生み出します。ひとつひとつのことに感謝するだけでなく、兄弟姉妹の間の土台として「感謝」を据えるようにとの勧めです。感謝があれば物事を肯定的に見るので、どんな状況においても希望を抱くことが出来、一切が喜びとなるのです。礼拝の場だけでなく、日常の言動においても、新しくされた者として、すべてのことを主イエスの名を意識することにより、ふさわしく行動することが出来、そして、主によって父なる神に感謝するものとなるのです(16節、17節)。厳しい状況の中にある今、私たちは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であることを自覚したいと思います。

清宣教師