4章に続いて、再臨のことがとりあげられています。すでにご存じのように、イエス様が言われたことは、再臨の日時を特定することは出来ません。むしろ、イエス様が言われたように、夜中の盗人が来るように、思いがけない時に、突如として来るのだから、いつ、再臨があっても良いように、普段の日常生活のなかで準備しなさいと言われています(1節―3節)。まして、クリスチャンは暗やみではなく、光のこどもなのですから、目を覚まして生活しましょう、とパウロは勧めています(4節―5節)。光の子としての生き方は、まず第1に、世の他の人たちのように眠っていないで、目を覚ましていることです。それは、再臨を無視しないで、いつも再臨を待ち望む生き方をするようにということです。具体的には、慎み深い生活をすることです(6節)。コリント人への手紙、第1、13章の最後にも出てきますが、パウロは、いつまでも残るものとしての信仰、希望、愛を挙げていますが、ここでは、信仰と愛の胸当てを身に着けて、希望のかぶとをかぶること、そうして、再び、慎み深く生きるように勧めています(8節)。そして、互いに励まし合い、互いに徳(品性)を高め合いなさいと勧めています(9節-11節)。後半の12節~28節も、神に喜ばれる歩みとは何かを示し、そのように歩むように勧めています。教会の中には、さまざまな立場の兄弟姉妹がいます。中でも、指導者として立てられているリーダー、また、みことばをもって訓戒しているリーダーを認めることが大事です。教会には秩序があります。教会はキリストの生きた体です。様々な器官があり、互いに認め合って成り立っています。認めるとは、主が備えて下さった、主が立てられた指導者をみとめることです。それが、かしらであるキリストのみこころです。人間関係の心地よさをバロメーターにするのではなく、愛をもって深い尊敬を払い、お互いの間に平和を保つことように、パウロは勧めています。いま、世の終わりの時代とは、まことの愛が冷えて、お互いに、批判したり、自己主張する偽りの霊が教会にも深く潜入してくる時代です。そこで、パウロはあえて、「兄弟たち、あなたがたに勧告します」と述べています。『気ままな者』とは、軍隊を離れて、職務を放棄している兵士を指す軍隊用語です。そのような人を受け入れて指導することは、とてもエネルギーが必要なことです。クリスチャンの職場では、往々にして、愛ということばで、自分を甘やかす傾向があります。しかし、クリスチャンの世界は、それぞれが兵士として、主に仕えるという崇高な目的のもとに献身する人たちの集まりでもあります。すべての人に寛容であり、悪をもって悪に報いない、いつも善をおこなうという、強い意志が求められます(14節、15節)。そして、短いですが、クリスチャン人生のモットウが記されています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(16節―18節)。これは暗唱聖句ですね。実はそのあとの聖句も、現代においては特に重要です。なぜなら、いつのまにか、長い教会の歴史の中で無視されてしまったことだからです。「御霊を消してはなりません。」(19節)。教会は目に見えるものに目を注ぎ、聖霊の存在を無視してきました。「預言をないがしろにしてはいけません。」(20節)。預言は使徒時代以降は、不要のものとして、無視されてきました。「すべてのことを見分ける霊的識別力の賜物」(21節)も、無視されてきました。いま、これらのひとつひとつが回復の途上にあります。最後の挨拶は、「平和の神ご自身があなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全にまもられますように」という祈りをもって祝福し、この約束は、私たちを召されたお方が真実な方ですから、かならず、そのことを実現して下さいます、と述べて、励ましています。そして、パウロの宣教チームのためにも、祈ってくれるようにお願いして、祝祷で閉じています。

さて、主はいま、何かをなさろうとされていると感じます。これまで経済力、科学技術、人間中心主義の圧倒的な力ですべてを呑み込み、支配してきた全世界の国々の歩みが、新型コロナウィルスの影響で、否応なしにストップしています。顕微鏡で見ることが出来ないくらいに小さな存在であるウィルスによってストップされました。「考えよ!」というサインです。「眠っている人よ、目を覚ませ。死者の中から立ち上がれ」(エペソ人への手紙5章14節)という御声を聞いて、立ち上がる人たちが起こされ、死んだ宗教ではなく、キリストのいのちにあって立ち上がる人たちによって、御国が訪れる時が来ているように感じます。

清宣教師