2章は、さまざまな年齢や性別、状況にある人への教訓が記されています。老人たち、年取った婦人たち、若い婦人、若い人々、奴隷に対する具体的なアドバイスを記しています。まず、「あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。」と勧めています。つまり、多くの人々は時の流れに左右されて流行を追う傾向があるけれども、あなたはあなたであり、他の人の流れに左右されることなく健全な教えを語りなさい、というのです。つぎに、老人たちに対する勧めです。キリストの再臨の日が近いことを覚えて、(1)感情やまわりのものに押し流されず、身も心も主の前に正しくあるように自制すること。(2)軽率ではなく、沈着を心がけるように謹厳であること。(3)慎み深くし、主がいつ来られても良いように、主を仰ぎながら良い備えをすること、(4)年齢を重ねてもだらけることなく信仰に堅く立つこと、(5)年を重ねても偏屈になることなく、大きな心で愛を示すこと、(6)体力や気力が衰えて高齢になると短気になりやすいので、忍耐を忘れないように、健全であるように、と勧めています。同じように、年をとった婦人たちに対しても、(1)結婚して年月が経つと気品や慎みが失われて、厚かましくなる危険があり、中には夫を見下したりする態度を示す者もあるので、キリストを信じるものは、そうではなく、あくまでも敬虔にふるまうように、(2)聖書をなまじ知ると、他人をさばく道具に使ったりする危険性があり、悪口が飛び交うことになる、そうではなく、同じ神のかたちにかたどって造られたものとして、互いに、悪口を言わないように、(3)寂しいことがあっても、大酒のとりこ(アルコール依存症)にならないように、(4)みことばに教えられて年を重ねた女性は良い模範であり、後に続く若い女性のために、良いことを教える者であるように、勧めています。若い女性たちに対しては、(1)結婚式を単なる儀式として終わらせないで、創造主の御前で誓約したように、夫を愛し、夫に従順であるように、勧めています。(2)子どもを愛するように勧めています。子供たちには創造主なる神の存在を教えること、創造主に従うこと、善悪の判断の基準を聖書から教えること、キリストの赦しを教えること、人と人との交わりのあり方を教えることなど、子供を愛する親は、こどもたちの良い模範を提供するように勧めています。(3) 他人の評価を気にしたり、自己顕示欲にとらわれることなく、慎み深くあるように、(4)家庭の崩壊を招くようなことを避け、貞潔であるように、(5)共稼ぎの中でも、創造主の計画に従い、男女の特性に基づいた役割分担を決め、お互いに家事に励むこと、(6)創造主が女性のために備えられた優しさを示すように、勧めています。次に、若い人々には、(1)意気込みはあるが、経験や知識の不足があるので、思慮深くあるように、と勧めています。また、牧会者であるテトスに対しては、良いわざの模範となるように、健全なことばを用いるように勧めています。次に、当時の社会制度としての奴隷に対して、二つのことを勧めています。ひとつは、キリストの御前ではこの世の身分などは問題ではないが、秩序を保つために主人に従うように、もうひとつは、主のしもべとしての実物教訓として、主のしもべであるという自覚をもって、私たちの救い主である神の教えを飾るようにするということです。11節~15節は、前半の1節~10節の教えの根拠は何かということを述べています。それは、人生には確実に終わりがあること、主の再臨の日があり、その時には、どのように人生を送ったかについて神の前に弁明する時が来ることです。ですから、クレテの教会の兄弟姉妹に対して、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、主の再臨を待ち望むように勧めているのです。キリストは、「良いわざに熱心なご自分の民ををご自分のためにきよめるため」に召してくださったのです。キリストは、クレテの信徒たちを、ご自分の民、つまり、天の国籍を持つものとして召してくださったのです。また、「良いわざに熱心な者たち」として召してくださったのです。ですから、その召しに応える信徒たちを立ち上げることが牧会者のテトスに課せられた役割なのです。こうして、パウロは、クレテの教会の牧会者としてのテトスが何をなすべきか、どのようになすべきか、懇切丁寧に教えているのです。それは、キリストにあって建てあげたクレテの教会が、健全に成長するための秘訣であるからです。最後の15節は、3章1節以降に続く内容です。

清宣教師