今日の2章について、ある注解者は、新約聖書の中でこれほど福音の普遍性を示した個所はほかにないと言っています。それは、1節、4節、6節で、「すべて」ということばが用いられているからです。「全ての人の為に」祈る。「神はすべての人が」救われて、真理を知るのを望んでおられる。キリストは「すべての人の贖いの代価として」ご自身を与えられました。「すべて」という言葉が、全人類の中で例外はないということ、どんな人でも救いの福音の対象とされていることを明確に述べています。一方で、「唯一」ということばも用いられています。5節、神は「唯一」です。神と人との間の注解者も唯一です、と述べています。全世界共通の唯一の神、唯一の仲保者であるイエス様の救いは、すべての人に及ぶものです。ところで、1節に、願い、祈り、とりなし、感謝という4つのことばが出てきます。祈りの4つの要素を示しています。第1に、「願い」このギリシャ語は、要求、欠乏をあらわすことばです。欠けたところを祈ります。第2に、「祈り」です。このギリシャ語は、神に対する語りかけ、神様だけしか与えることが出来ない赦しなどを求めるものです。神様だけ、神のもとへ、それが祈りです。第3に、「とりなし」です。このギリシャ語は、哀願、一致する、ある人と密接な関係にある、ことなどを意味しています。それが、やがて王(支配者)に請願するという意味になりました。第4に、「感謝」です。これは祈りはつぶやきや不平の中で捧げられるものではなく、感謝の中で捧げられるものであることを示しています。1節―4節では、教会の公けの集会では、すべての人のために祈るように勧めています。その中でも、とくに、為政者のために祈るように勧めています。じつは、為政者のために祈ることは、それが良きものとなって、私たちに返って来るからです。つまり、「私たちが敬虔に威厳をもって、平安で静かな一生を過ごす」ことが出来るようになるのです(2章2節)。そして、「神のみこころは、すべての人が救われて真理を知るようになる」ことです。その全ての人の中には王や高官たちも含まれているからです。5節―7節では、救いに関する神のみこころについて記しています。福音の核心は、「排他性」と「普遍性」のふたつから成り立っています。「神は唯一です」とか「神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです」と述べています。つまり、ここに、キリスト・イエス以外のものをすべて排除する排他性があります。キリスト・イエス以外には、救いはないのです。しかし、もう一面があります。それは救いの普遍性です。つまり、「キリストは、すべての人の贖いの代価として。ご自身をお与えになりました。」という事実です。この救いは、すべての人に提供されています。キリストの救いには、この排他性と普遍性のふたつの面が含まれていることを忘れないようにしましょう。後半の8節~15節は、要約すれば、男は男らしく、女は女らしくということです。「男」は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈る存在なのです。「女」は外見を美しく見せるよりも、神を敬うにふさわしい良い行いを自分の飾りとする存在です。また、順番があります。アダム(男)が先であり、エバ(女)があとなのです。優越性ではなく、優先順位なのです。なぜなら、創造の秩序を無視して、エバがアダムの前に出たために、エバは蛇にだまされて罪を犯してしまいました。オオカミ王ロボの作品にも出てきますね。ロボの恋人のオオカミ『ブランカ』が前に出て罠にかかってしまい、最後に、ロボも死んでしまいました。さて、15節は一見わかりにくいですが、この個所で、女は子を産むことによって「救われます」という意味は、「魂の救い」ではありません。「女性の幸せ」というような意味です。女性は子を産む特権があります。男性は子を産むことが出来ません。女性は女性として慎みをもって、男性を前にして、信仰と愛と聖さとを保つ生活をする時、子を産むことが幸せとなる、というような意味です。

清宣教師