いよいよ、第2の手紙です。パウロの第2回伝道旅行の際に、いよいよ出発という時に、パウロは長い間のパートナーであったバルナバとの間で、マルコを連れて行くかどうかということで論争となり、ついに、パウロとバルナバは別々のコースへと旅立ちました。ある意味、孤独なパウロでしたが、途中、ルステラの町で、神様からの贈り物であるかのように、一人の若者テモテを与えられました。それ以来、テモテは、パウロの忠実なパートナーとしてパウロに仕えました。この手紙が書かれた頃には、テモテは30代になっていたと想像されます。さて、パウロはいま、獄中にいます(1章8節、2章9節参照)。使徒の働きの28章の最後に記されているローマでの獄中生活では、住む家も与えられて、訪ねてくる人たちに伝道する自由があたえられていました。しかし、そのあと、パウロは釈放されて、テモテ、テトス、エラスト、トロピモなどを同伴して、東地中海への伝道旅行へと出発しました。マケドニヤを経て、トロアスに渡り、エペソへ行き、そこにテモテを残して、ミレトに行き、病気のトロピモをそこに残し、アカヤに渡り、エラストをコリントに残し、ニコポリに行く計画でしたが、実行前に、逮捕され、ローマに連行されたと言われています。今回のローマでの獄中生活は、囚人として鎖に繋がれる身でした。1回目の審理はすでに済んでいました(4章16節)。パウロは、最後は殉教の死を遂げることになることを察していたようです。このテモテへの第2の手紙は、パウロが残してくれた最後の手紙であり、いわば絶筆であろうと言われています。テモテへの手紙の第1を記したあと、教会の内外で違った教え(テモテへの第1の手紙6章3節参照)を用心するように指摘していました。そして、いまは、ローマ皇帝ネロのキリスト教の迫害が厳しさをましている状況でした。そのような中で、テモテは、どうやら、まわりの人が見ても、気落ちしているようでした。パウロは、もともと、激しい闘士のような人生を歩んできましたが、テモテはどちらかというと、そのような闘士ではなく、弱さがあったようです。それで、パウロは、「あなたの務めである福音宣教を恥とするな!」と繰り返し、訴えています。パウロ自身は獄中にいても、日夜祈り、諸教会や同労者を思う偉大な使徒でした。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、しっかりやりなさい」(4章2節)。それは単なることばによる勧めではなく、パウロの人生の証しでもありました。1章1節~16節は、「わたしは、福音を恥としない」というメッセージです。多くの困難、迫害のなかで、働き人を奮い立たせるものは、主からの召命です。そして、執り成し手の祈りです。パウロは日夜、テモテを覚えて祈っていると励ましました。そして、祖母や母からの信仰の継承としての恵みがあります。また、按手による賜物があります。それは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊であるとパウロは言います。これらの力と愛と慎みは、生来のものではありません。聖霊による賜物としての力と愛と慎みです。生来のものではない、上よりの力と愛と慎みに満たされるのです。「恥じてはいけません」(8節)。これが1章の鍵となることばです。十字架の福音はこの世の人には愚かです。だからと言って、恥じることではありません。私たちは聖なる招きによって、この十字架の福音を宣べ伝える者として召されたのです。そのために、苦しみに会っています。しかし、パウロは言います。、「私はそれを恥じとは思っていません」(12節)。いまは、このような迫害や処刑はありませんが、日本の歴史をさかのぼると、キリシタンの迫害による殉教者の数は、世界で一番多かったと言われています。長崎の浦上では26名の人が処刑されました。わずか12歳で処刑されたルドピコ茨木もふくまれていました。みな神を賛美し、神の御名をほめたたえて処刑されたと言います。パウロは言います。キリストを信じるゆえの迫害であるから、私は、一切、恥とは思っていない。それは、私は自分が信じてきた方を良く知っているからであると言います。残念ながら、パウロは囚人となると、パウロと親しい間柄であったフゲロとヘルモゲネが、パウロを見捨てて、そ知らぬ顔をするようになりました。しかし、一方では、オネシポロの家族が、パウロが獄中にいるにもかかわらず、助けてくれました。この世にある人間関係は、どんなに良く見えても、その真価を問われた時に、知らぬ顔をするフゲロとヘルモゲネのような人、獄中にまで訪ねてくれるオネシポロの家族のような人、に別れてしまいます。主イエス様に忠実にしっかりと結びついている人は、どんなときにも、主のしもべの忠実な味方です。わたしはオネシポロの家族のような主の忠実なしもべになりたいです。この世の人生は短く、御国での人生は永遠ですから。

清宣教師