使徒パウロは、終わりの日に訪れる困難について預言しています。ここで記しているのは、人間の秩序の崩壊です。19の悪徳のリストが挙げられています。①自分を愛する者、②金を愛する者、③大言壮語する者、・・・・⑲見える所は敬虔であっても、その実を否定する者などです。まとめてみると、自分を愛し、金銭を愛する貪欲な自己中心主義の蔓延です。ローマ人への手紙1章29節~32節にも、同じようなリストがあります。あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、・・・慈愛のない者など、が挙げられています。このふたつには違いがあります。ローマ人への手紙1章のリストは、創造主を信じようとしない未信者の悪徳のリストでしたが、テモテの第2の手紙、3章の場合は、教会内での信徒の姿です。罪赦されたものが、今なお罪を愛し、貪欲に支配され、義の道を憎む生活をづづけるクリスチャンの集まりとしての教会の姿を描写しています。こういうことが、教会の中にも起こってくるということです。すでに起こっているとも考えられます。パウロは、こういう人たちを避けなさい、と忠告しています(5節)。パウロの時代には、いろいろな異端的な考え方が教会の中に入り込んできました。一方では、極端な禁欲主義の教え、他方、精神は肉体の汚れの影響を受けないので、肉体の欲望を勝手に満足させても大丈夫という教えでした。それで、情欲におぼれた女性たちが、夫以外の男性と乱交しているということも起こっていました(6節)。パウロは、そのような偽りの指導者たちのことを、モーセに逆らってパロに仕えていた呪法師たち(ユダヤの伝承で、ヤンネとヤンブレと言われている)のような、神に敵対するものであると指摘しています。呪法師たちは、モーセが行った神のみわざ(奇跡)を真似して、彼らの魔術で、似たようなことを行い、パロの心を頑なにしました。そのような惑わしの霊に導かれた者が、いかにも外見は敬虔にみえる言動で、まことしやかに、クリスチャンに罪を犯させるのです。彼らは信仰の失格者です。それを識別することが求められています(8節、9節)。10節~12節において、パウロは、敬虔に生きようと願う者たちは、神に聞く人になるように勧めています。パウロは、公明正大な人であり、正しい教理を教え、言行一致のひとであり、神の栄光のために働く人であり、迫害や苦難に耐える人でした。このようなパウロの模範をみるように願っています。13節~17節で、パウロは、神のことばに留まるように勧めています。ここで、ひとつ注意すべきことがあります。それは、ここに記されている「聖書」とは、いまでいう、旧約聖書のことであるということです。その当時、新約聖書は存在しませんでした。当時の教会にあったものは、旧約聖書です。それに加えて、使徒たちからの手紙もありました。まだ、福音書は完成されてはいなかったと思われます。どれほど、「旧約聖書」がクリスチャンの信仰の土台として尊ばれていたかを、改めて、認識する必要があります。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることが出来るのです。」(15節)。つまり、福音書ではなく、旧約聖書そのものがキリスト・イエスに対する信仰による救いを得させることが出来るのです。このことをもう一度、考えてみましょう。また、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい充分に整えられた者となるためです。」(16節、17節)。案外、わたしたちは、聖書という言葉を、「新約聖書」というように誤解して読み込んでいることがあります。プロテスタントの諸教会は、旧約聖書を軽んじる傾向があるように思います。この機会に、旧約聖書の重要性、とりもなおさず、旧約聖書を守り抜いたユダヤ人の存在の重要性も、一緒に認識したいです。

清宣教師