1節~13節:乳と蜜が流れる地。まず、著者は、「神の安息に入るための約束はまだ残っている」と語り掛けています。この神の安息については、3種類の安息が紹介されています。(1)神を信じるものに与えられる霊的な意味での神の永遠の安息、平安です(4章3節)。(2)かつてイスラエルの民に与えられた約束の地、カナンに入ること、エジプトを脱出したイスラエルの民にとっては約束の地に入ることが、安息に入ることでした(4章6節、8節)。(3)神が天と地の創造のみわざを成し遂げられて入られた安息です(4章4節)。「前に福音を聞かされた人々」(6節)とは、40年間、荒野をさまよった民たちのことです。モーセを通して約束の地カナンを調査するために12人の斥候が遣わされて帰ってきたとき、彼らはみな、「父と蜜の流れる良い地」であるという福音を伝えました。しかし、同時に、そこには巨人がいるという臆病な10人の斥候たちの報告を聞いて不信仰に陥り、結局、約束の地に入ることが出来ませんでした。しかし、今でも、神の安息に入る約束が残されているというのです。それは、創造の週の7日目に、神は創造の御業を完了して休まれた、という記述がありますが、再び創造の働きに入られたという記述はないので、その安息は、いまもなお、続いているはずだというのです。一方で、モーセの後継者のヨシュアは、イスラエルの民を率いて約束の地であるカナンに入り定住しました。だから、神の安息の約束は完全に成就したことになるはずでした。しかし、その約束は成就したことにはなっていないというのです。何故なら、ヨシュアの時代から数百年後に、ダビデが再び、神の安息に入るように勧めているからです(詩篇95篇7節、8節)。以上のことから、神の永遠の安息に入る約束は今も有効であり、「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」、「この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか」と勧めています。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」(4章12節、13節)。私たち人間は、最終的には神の前に立ち、自分がどのように生きたかについて審判を受けるのです。そして、聖なる全能の神の前では、一点のごまかしも偽りも許されないのです。そうだとしたら、誰が聖なる神の前に立つことが出来るでしょうか。誰もいないはずです。しかし、父なる神は、そのために、御子イエス様をこの地上に遣わされて、あらかじめ、罪の贖いを成し遂げてくださったのです。このお方は、天に戻られて、天の至聖所に入られた偉大な大祭司として、私たちのために執り成してくださるのです。ですから、私たちは自分の信仰の告白を堅く保つ必要があります。私たちの大祭司であるキリストは、罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです(15節)。天には、私たちのために、恵みの御座が用意されているのです。それがなければ、人類は誰一人救われることはありません。しかし、大祭司であるイエス・キリストが私たちのために、執り成してくださるので、大胆に恵みの御座に近づくことが許されているのです(16節)。私たちは、主イエス・キリストを信じて、大胆に恵みの御座に近づく以外に救いはないのです。大祭司であるイエス様、唯一の救い主に賛美をお捧げします。

清宣教師