もし、みなさんが、牢獄とか、孤島とか、あるいは、人里離れたところに行かれるとき、本を1冊だけ、持って行けるとしたら「聖書」を選ぶ人は多いと思います。さて、聖書66巻の中のひとつの書だけ、持って行けるとしたら、どの書にしますか?詩篇ですか?ヨハネの福音書ですか?創世記ですか?ヨブ記ですか?ローマ人への手紙ですか?みなさん、いろいろ、答えが出てきそうですね。西多賀教会の基礎を築いたピーズ宣教師は、「へブル人への手紙です」と答えられました。確かに、「へブル人への手紙」には、「旧約聖書」と「新約聖書」の両方の内容がミックスされています。旧約時代の礼拝の規定や地上の幕屋は、新約時代のイエス・キリストのお働きを指し示すものでした。素晴らしい個所です。へブル人への手紙の著者、あて先、執筆年代などは、残念ながら明らかではありません。ただ、内容をみると、1世紀の迫害の中で苦しんでいるユダヤ教から改宗したクリスチャンたちに対して、牧会的な配慮のもとに書かれた勧めと慰めのことばの手紙であることが分ります。紀元49年にはローマのクラウデ皇帝の迫害、64年の皇帝ネロの迫害、75年のドミティアヌス皇帝による迫害が、クリスチャンたちを襲いました。皇帝崇拝をしなかったので、国賊視され、反逆民扱いされました。財産を没収され、残虐な方法で殺された者たちも莫大な数に上りました。このような過酷な状況の中にあるクリスチャンたちは、信仰の戦いを良く戦い、苦しむ同胞たちを助けあうことを忘れませんでした。へブル人への手紙6章10節、10章32節~34節に記されています。他方で、あいつぐ迫害によりうみつかれ信仰の後退を余儀なくされる者たちも出てきました。また、信仰以前の生活に転落する人たちも出てきました。そのような激しいゆさぶりのなかで、宣べ伝えられた福音の真髄をしっかりと心に留めて押し流されないようにと忠告しています(2章1、3,4節参照)。また、神は真実な方ですから、動揺しないで、しっかり、希望を告白し続けるように勧めています(10章23節)。そして、有名なみことばがあります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(12章2節)。へブル人への手紙の全体のメッセージは、「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、憐みを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(4章16節~16節)という個所に要約されています。難しい個所もありますが、心を開いて、へブル人への手紙を読んでみましょう。さて、1章の内容ですが、当時の教会の中に、イエス・キリストを御使いであるとか、天使長であると主張する者たちがおり、天使礼拝の異端も始まっていました。それで、この1章では御使いと御子の違いを明確にしています。まず、初めの2節と3節において、①キリストは世界の創造者である、②キリストは万物の相続者である、③キリストは神の栄光の輝き、神の本質の現れである、④キリストは宇宙の保持者である、⑤キリストは贖罪者である、⑥キリストは天におられる仲保者である、という事実を指摘しています。一方、天使たちは、神に仕えるものであり礼拝の対象ではありません。しかし、キリストは神の御子であり、父なる神と共に礼拝を受けられる方であることを明確に示しています(1章、2、3、4、5、6、13節参照)。

清宣教師