旧約聖書に規定されている大祭司について述べています。大祭司は、人々の中から選ばれました。そして、人々に代わって罪のために、ささげ物といけにえとをささげる働きをしていました(1節)。大祭司自身、人間であり、弱さをもつ存在でした。だからこそ、無知な迷っている人々をも思いやることができるのです(2節)。ただし、自分自身が罪を犯す弱さをもっているので、自分自身のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりませんでした(3節)。さて、大祭司としての職務に就くには、第1に、神による任命が必要でした。御子イエス様も、父なる神の召しによって任命されたのです。そのことは、父なる神の召しのことば、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」と宣言されたことで明らかです(4節~6節)。第2に、神への絶対的依存が必要でした。キリストは、人としてこの世におられたとき、ゲッセマネの園で、底知れぬ苦悩と孤独の中から、「自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげられました(7節)。第3に、神への畏れが必要でした。その点について、聖書は、その敬虔のゆえに聞き入れられました、と記しています(7節)。第4に、神への従順が必要でした。「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び」と記されています。キリストは、受肉から十字架に至るまで徹底して従順の道を歩み通されました。あの最期の晩に、イエス様は「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」と父なる神に申し上げました。完全な従順の証しでした。イエスは、その生涯を通じて、死、復活、昇天を通して完全な者とされました(9節)。イエスは、ご自分が完全な資格をもっておられることを身をもって実証されたのです。10節において、「メルキゼデクの位に等しい大祭司」と紹介しましたが、ここではいったん筆をおいて、6章20節以降で説明しています。まずは、「メルキゼデクの位に等しい大祭司」という教えを学ぶには、十分な準備が出来ていないことを指摘しています。つまり、「あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です」と述べています。年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、まだまだ、あなたがたは初歩からやり直し、やわらかい食物か、ミルクでないと消化できない、幼子のようである、と厳しい指摘をしています。これから伝えようとする教えは、幼子のための食物ではなく、成人した大人向けの堅い食物であり、きちんと自分で良しあしを識別できる人たちが受け取るべき教えである、と釘を刺しています。そして、続く6章において、あなたがたは、もっと学びにおいて成長しなければならないということを強調しています。

清宣教師