へブル書7章1節~3節、「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」さらに、4節~10節、「その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴収するようにと、律法の中で命じられています。ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他の場合は、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。」と展開していきます。つまり、イスラエル民族にとって、もっとも偉大な父祖、アブラハムが、王であり祭司であるメルキゼデクに捧げものをし、祝福をうけたという事は、メルキゼデクという人物が、アブラハムよりも偉大な人物であったことを示していると解釈しています。しかも、あとで、主の律法により定められた幕屋(のちに神殿)に仕えることになったレビ系の祭司たちも、そのときは、アブラムの腰の中にいた(アブラムの子孫としてという意味)ので、レビ系の祭司たちも、じつは、アブラハムを通して、メルキゼデクに捧げものを捧げたことになると解釈しています。つまり、メルキゼデクの祭司職は、レビ系の祭司よりも優位にあると述べています。さらに、11節~16節、「さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、―民はそれを基礎として律法を与えられたのです―それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。」と、展開していきます。つまり、旧約時代の律法によって建てられたレビ系の祭司たちは、アロンの直系の子孫が祭司となると定められていました。ですから、祭司となるには、ただひとつ、アロンの直系の子孫であるという系図があれば、祭司としての資格があったのです。一方、祭司も人間であり、必ず、死にます。ですから、祭司職は、直系の子孫へと、次から次へとバトンタッチされる必要がありました。ところが、このメルキゼデクには系図がありません。しかも、レビ系の直系でもありません。まったく、別の祭司職が立てられたということです。メルキゼデクには系図がないということは、肉のいのちのバトンタッチによるレビ系の祭司職とは異なり、メルキゼデクの位に等しい、朽ちることのないいのちの力によって永遠の祭司として立てられたのだと主張します。(続く)