5章あたりから旧約聖書の贖罪の制度である幕屋の配置や構造、その器具など、また、レビ人、祭司、大祭司の役割や働きに関して、新約的な解釈が解き明かされてきましたが、いよいよ、この10章でクライマックスに達している感じがします。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物(本体)はないのですから、律法は、年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって神に近づいてくる人々を、完全にすることができないのです」(1節)。旧約聖書に定められた地上での礼拝では、永遠の罪の赦しはありませんでした。雄牛やヤギの血は、かえって年ごとに罪を思い出させるものでした(3節)。しかし、キリストは、みずから父なる神の御前に、ご自分のからだを犠牲にして、永遠の贖いをなすことを決意されました(5節~9節)。「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われて、動物による古い契約を廃止されたのです。そして、ただ一度だけの犠牲により、永遠の贖いを成就されたのです(10節、12節)。ただ一度の贖い(atonement)です。もはや、罪のためのいけにえは不要なのです。「キリストは聖なるものとされる人々を、ひとつの捧げ物によって、永遠に全うされたのです」(14節)。こうして、罪の捧げ物はもはや無用となったのです(18節)。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることが出来るのです。」(19節)。これはまさに前代未聞の出来事でした。神の御子が、ご自分の体を裂かれて、神の臨在の場である至聖所に至る垂れ幕を取り除いて下さったのです。神の御子の犠牲のゆえに、大胆に、大胆に、父なる神のみもとへ近づこうではありませんか。まさにアメージング・グレイス!びっくり仰天するような恵みです。「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(35節、36節)。当時、迫害と試練、背教、先行の見えない不安に閉じ込められていた信徒たちに求められているのは、「忍耐」です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」(37節、38節)。新型コロナウィルスが、いったん収束したとして、そのあとに来るものは何でしょう。世界的な経済の不況、それと共に日本における不況、エネルギー問題、食糧問題などなどが予測されます。そのとき、私たちを取り巻く状況に左右されるのではなく、私たちの大祭司、イエス・キリストに救いと解決があることを覚えて、信仰者として大胆に生きることが出来るように、祈りのうちに備えましょう。

清宣教師