11章では、旧約聖書の中の人物から実例を挙げ、また、現在、牢に入れられ、迫害され、あるいは殉教の死を遂げた無名のキリスト者たちのことを挙げて、信仰者の生涯とは、神の約束に立って生きるひとたちであることを示しました。そこには、神からの大きな報いが用意されていることを明らかにしました。さて、12章では、今度は私たちの番である、というのです。まず、オリンピックの競技場のような場面です。そこには多くの観衆がいます。それはすでに天に召された無数の信仰者たちです。雲のように多くの信仰者たちが応援しているのです。そこで、信仰の競争を走るのは、私たちだというのです。古代オリンピアのトラックは192mだったと言われています。そこをゴール目指してひたすら走るのです。キリストご自身も、ゴールの向こうに見える喜びのゆえに、十字架の苦難をも耐え抜いて贖罪のわざを成し遂げて、天に戻られ、父なる神の右の座につかれたのです。「いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて」とあります。邪魔なものは振り捨てて走るのです。そうでないと、体力を消耗してゴールにつくのが困難です。ところで、私たちの信仰のレースに邪魔になるのは、何でしょう。第1に、この世の力です。この世はキリストに反抗し、十字架にかけました。そして、この世はクリスチャンをも、妨害します。第2に、罪と誘惑の力です。罪は、問題を避けて楽な道があると誘い込みます。第3に、思い煩いという重荷です。あれこれ心配していると、どんどん重荷が増大します。これは私たちの霊的な力を消耗させる最もやっかいな力です。当時の競技場には、無数の観客がつめかけて、そのレースを見守っていました。同様に、私たちの信仰の歩みも、天における無数の信仰の勝利者たちが、見守っているのです。もろもろの障害物があったとしても、最後まで忍耐をもって走りぬくときにゴールが待っています。耐え抜くことです。過去の信仰の先輩たちはみな、耐え抜いて勝利の栄冠を勝ち取ったのです。信仰の生涯において勝利する秘訣は、信仰の創始者であり、完成者であるイエスに目を固定して、目を離さないことです。イエスは、憐れみ深いお方です。最初に信仰の道を切り開いてくださったお方です。そして、完成されたお方です。父なる神のみこころに従順なしもべでした。そして天の御座に着座されたお方です。あらゆる反抗を耐え忍ばれたお方です。このお方から目を離さないようにしましょう。さて、4節~11節は、父なる神からの訓練として受け取ることを勧めています。父なる神の訓練は明確な目的があり、その目的とは、子たちをきよめ、御国の子にふさわしいものとするためなのです。12節~17節は、信徒の間での相互の訓練です。お互いに落後する者がいないように励まし合いましょう。18節~29節では、旧約時代にシナイ山で律法が与えられた時の恐ろしい情景をまず描いています。あまりの恐ろしさに皆が震えていました。しかし、これとは対照的に、新約時代においては、御子イエス様がご自分の血の代価をもって、父なる神との新しい親しい関係を切り開いてくださったので、私たちは愛されている子供たちとして、天の父なる神の前に近づくことが出来るようになりました。なんという幸いでしょう。それゆえに、私たちクリスチャンは、天から語っておられる方を拒まないように注意するように警告されています。やがて到来する終わりの日には、地だけでなく、天も揺り動かされる日が来ます。それは決して揺り動かされることのない天の御国が現れるためです。そして、この揺り動かされることのない永遠の御国こそ、私たちがそこに入るように招かれている場所なのです。ですから、それらのことを感謝し、喜んで自分たちを生きた聖なる供え物として神の前に捧げて忠実に奉仕しようではありません。

清宣教師