1節~16節は、クリスチャンのライフスタイルについて述べています。まず、兄弟愛です(1節~3節)。当時の教会は、激しい迫害の中にありました。この激しい迫害は、ふたつの側面をもたらしました。一方では異端者狩りともいうべき、信仰を純粋に保とうと願う動き、他方では信仰が弱く、躓いた兄弟姉妹に対する冷たい態度でした。しかし、このことは、教会分裂の危機をはらんでいました。そのような状況下で、兄弟愛をいつも持っていなさい、という勧めは、具体的、現実的な勧めでした。次に、旅人をもてなすようにという勧めですが、当時は旅館というものはあっても非常に不衛生な、しかも不道徳の巣となっているようなところでした。福音宣教の最前線で奉仕する者にとって、旅の先々で、迎えてくれる家庭があることは、とても、心強いことでした。さらに、牢につながれている人々を思いやることは、信仰のゆえに投獄され、不当な重い刑罰を科せられた信仰者にとって、クリスチャンの兄弟姉妹による物心両面での支援はとても心強いことでした。次に、結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい、と勧告されています。さらに、金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい、と勧められています。金銭はともすると、間違った独立心を助長するものです。金さえあればなんでもできる、ということで、金や富に信頼をおくことになりやすいです。満ち足りることを知り、分かち合う思いが大切です。次に、指導者の生活を見習うようにと勧めます。ただし、「神のみことばを語った指導者」であり、しかも「その生活の結末が、みことばの示す通りであった指導者」という限定付きです。これらの指導者に見習うことが信仰の成長の秘訣です。もちろん、最高の模範は、大祭司としてのイエス・キリストです。さて、旧約聖書の犠牲制度をみると、罪のためのいけにえの動物は。宿営の外で焼かれるようになっていました。それはやがて来るべき救い主の型でした。実際、救い主であるイエス・キリストはユダヤ人によって拒絶されて、エルサレム郊外、つまり、城壁の門の外で処刑されました。同様に、キリスト者は、門の外で苦しみを受ける覚悟が必要である、と勧めています。つまり、ユダヤ教の枠組みの中にとどまるのではなく、勇敢に外に出るべきである、と勧めていると解釈されます。さて、キリストは、わたしたちのために最高の捧げものをしてくださいました。ですから、私たちも最高の捧げものを捧げようではありませんか。最高の捧げものとは、たえざる神への賛美と信仰の告白です。また、隣人に対して善を行い、持ち物を分かち合うことこそ、神の御前で最高の捧げものとなるのです。後半の17節~25節は、完全な者となるための秘訣です。良きリーダーとなるには、たましいのために目覚めている指導者(17節)、見張り人としての指導者、昼も夜も目を覚まして神の羊(信徒たち)を見張る指導者、神への決算報告をする指導者となることです。最後の審判においては、指導者たちは、神に自分たちの決算報告を出すように求められるのです。これらの模範的なリーダーシップをとる指導者の条件に対して、それに従う信徒たち、すなわち、良いフォローアーシップについても記しています。何故なら、良いリーダーシップと良いフォロアーシップのふたつが揃って、初めて教会という良い共同体が形成されるからです。良いフォロアーとは、1.リーダーが語った神の言葉を受け入れ、実行する人です。2.指導者への尊敬と信頼を具体的に表している人です。3.指導者たちが、喜んで指導の任に当たるように心配りする人です。指導者のために熱心に祈る人です。最後に、祈りと伝言と挨拶と祝祷が記されています。神様は、私たち一人一人を良きフォロアーとして召してくださいました。私たちの教会がみこころにかなって、豊かに成長しますように。

清宣教師