さあ、ペテロの手紙第1に入りました。宛先はポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ピテニアに散って寄留している、クリスチャンたちです。これらの地名は、黒海の南にある地名です。現在のトルコです。ところで、「散って寄留している」という表現について、二つの解釈があり、意見が二つに分かれます。ひとつは、これはエルサレムのユダヤ人のクリスチャンたちが迫害されて、それぞれの地に散って寄留している、と理解する解釈があります。、もうひとつは、この表現はもともとユダヤ人たちに対する表現であるが、それを異邦人クリスチャンたちに当てはめて使っていると理解する解釈があります。いずれにせよ、これらの地方に散らされて寄留しているクリスチャンたちに宛てられたものです。それがユダヤ人クリスチャンと理解するか、異邦人クリスチャンと理解するか、その判断が難しいところです。なぜなら、どちらの立場に立っても、それを裏付けるような表現が見られるからです。さて、差出人については「イエス・キリストの使徒ペテロ」と記されていることから、使徒ペテロによる手紙であると理解されています。これまでのパウロの手紙、これから読むところのヨハネの手紙などと比べると、ペテロの手紙は、ずいぶん、内容においても、表現の仕方においても違います。やはり、それぞれ、性格が異なるところを用いて、創造主なる神がそれぞれの書を著者にえらばれたようです。ペテロの手紙では命令形が多いのがひとつの特徴です。いま、迫害に直面しているクリスチャンたちが、多くの苦難の中でも、それぞれ置かれている場所で、神の恵みを深く味わい、クリスチャンとしての良き戦いを戦い抜き、勝利して欲しいと願う手紙です。1章1節の選ばれた人たちとは、神の御計画というハッキリした使命の中で選ばれている人たちという意味です。そして、神は、私たちのために必要なすべてのものをあらかじめ準備して下さったのです。消え去ることがない資産も、信仰も、救いも、なにもかも、備えて下さったのです。だから、私たちの第1の使命は、神をほめたたえること、神を賛美することであるとのベています。そして、「ひたすら待ち望みなさい」、「従順な子どもとなりなさい」、「聖なるものとなりなさい」と命じています。さて、ペテロがこの手紙を書いた意図ですが、ペテロは、手紙の対象となった人たちが置かれている苦境を良く知っていました。その苦しい現実を直視しながらも、各自の持ち場、立場に置いて、主なる神の恵みを味わい知り、そこに堅く立ち、善をおこない、積極的に戦い進め、と宣言しています。それは、イエス様が十字架の苦難の道へと歩みを進める直前に、最後の晩餐の終わりに、ペテロを含めた12弟子たちに遺した最後のことばを思い起こさせます。「あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネの福音書、16章33節後半)というみことばです。「世にあって」とはどういうことなのか、世に生きるとはどのようなことなのか、世にあって宣教命令を果たすとはどういうことなのか、これらのことが、ペテロの手紙、第1の中で展開されているテーマなのです。ヤコブの手紙4章でも述べましたが、世にあるとは、クリスチャンにとっては必然的に戦いや艱難に直面することを意味しています。しかし、現実の世の中で、成熟したクリスチャンは勇敢に戦い進むほかに道はないのです。そのために、すでに世に対して勝利をおさめられた主イエス様の恵みを味わい知るように、ペテロはこの手紙を書いています。

さあ今日も、私たちの出発点である、賛美からスタートしましょう。「天と地を創造された聖なる主の御名を賛美します。今日もあなたの御手のうちにあって私たちをお守り下さい。」

清宣教師