昨日の2章18節~25節では、ローマ帝国時代の奴隷として、クリスチャンはどのように生きるべきか、具体的に、勧めがなされていました。そこでは、善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい、と勧められていました。人が不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです、とも記されていました。これがキリストの模範にならう成熟したクリスチャンの生き方です。そして、同じように(1節)、クリスチャンの妻の生き方としては、自分の夫に服従することです。それは、みことばに従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神のものとされるようになるためです。しばしば、自分の夫を変えようとして、夫を責めたり、裁いたり、仕返しをしたり、怒ったりしている例がありますが、夫を遠ざけるだけの逆効果(マイナス効果)しかないようです。ここでは、神の前に自分自身を飾るように勧めています。それは、柔和で穏やかな霊という朽ちることのない隠れた人柄のことです。これこそ、神の前に価値あるものです(1節~6節)。同じように(7節)、夫に対しては、第1に、妻が女性であること、また、弱い器であることを覚えて、妻と共に生活することを勧めています。なんでも自分と同じように出来るわけではないということです。おのずと夫としての役割があるということです。第2に、いのちの恵みをともに受け継ぐものとして、妻をけなしたり、侮辱してはいけないということです。そうではなく、信仰を共に継承し、天の御国を共に相続する者として妻を尊敬することです。最後に(8節)、しもべや、妻や、夫だけでなく、すべてのクリスチャンはキリストの生き方にならって、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜であるように勧めています。そして、この世での人間関係における成熟したクリスチャンとしての最高の秘訣として、「悪をもって悪に報いないこと、侮辱をもって侮辱に報いないこと、かえって祝福を与えること」を勧めています。なぜなら、私たちはクリスチャンとして、神の子供たちとして祝福を受け継ぐために召され、そして今、この世に生かされているからです。ともかくも、私は祝福の器として召されているということを忘れないことです。呪いの器ではなく、裁きの器でもなく、祝福の器として、この世におかれているのです。それは地の塩、世の光としての存在です。徹頭徹尾、祝福するために、いま自分はここにある、という信念です。なお、15節以降で、心の中でキリストを主としてあがめること、そして、私たちのうちにある希望について説明を求める人々には、いつでも、弁明できるように用意をしていなさい、と勧められています。創造のみわざ、贖いのみわざ、永遠の御国の希望などについて、だれにでも分り易く説明できるように準備をしておくように勧められています。3章18節で、「キリストも」と記されていますが、これは4章1節で、「私たちも」ということばに繋がります。19節と20節は、聖書の中でも最も難解な個所と言われています。キリストは霊において、ノアの時代に滅んだ霊のところに行って、福音を語られたということになります。ただ、分ることは、ノアの時代の大洪水が、バプテスマのことを表しており、その水を通して、ノアたち8名の者が救われたということです。これらのことは、現代の私たちの救いの型であり、大洪水は罪の裁きであり、箱船はキリストの贖いによる救いの型であるということです。キリストは、復活のみわざを通して、ご自分が神の御子であることを明らかにされ、天上のもろもろの権威、権力と呼ばれる天使たちを従えて、父なる神の御座の右に着座されておられるのです。

清宣教師