「そこで」と始まり、ペテロの手紙第1のまとめとして、ペテロは、群れの指導者たちに対して、成熟したクリスチャンの模範を実践するように勧めています。先ず、ペテロは自分自身のことを3つの表現を用いて、明らかにしています。ひとつは、「同じく長老のひとり」と呼んでいます。ペテロも各教会に立てられている長老たちも、それぞれにふさわしい責任を与えられています。ふたつめは、「キリストの苦難の証人」と呼んでいます。ペテロが自分自身をキリストの苦難の証人と呼ぶときに、過去における失敗を犯したものとして、十字架を抜きにして自分は自分でありえないというのです。みっつめは、「やがて現われる栄光にあずかる者」という表現です。キリストご自身が十字架の苦難を通して栄光への道を切り拓かれたように、キリストの苦難の証人たちはキリストの栄光にもあずかることができる、というのです。長老たちの使命は、神の羊の群れを牧することです。強制されたり、利得を求める心からでもなく、支配欲からでもありません。そこには内面的な戦いがあります(1節~5節)。また、「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」(6節)と、勧められています。そのあとに、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(7節)と勧めています。[思い煩い]はどこから来るのでしょうか?自分中心の生き方を絶対に捨てないという頑なさから来ます。「委ねる」とは、どういうことでしょうか?自分中心の生き方を捨てて、神中心の生き方をすることです。[思い煩い]は、自分で解決できる、自分で解決すべきだ、という土台から出てきます。あるいは、これだけは、私の思うとおりにさせてもらいたい、という思いから来ます。つまり、自分中心の生き方を捨てないところに起因しています。だから、へりくだる必要があります。思い煩いは、自分を手放さない生き方です。しかし、神の前にへりくだるとき、神様に委ねることが出来ます。自分の手から、その問題を手放すとき、神様が働いてくださいます。神様が心配されて解決して下さいます。今日、自分の手の中に握りしめて手放さないもの、あるいは手放さないできた問題を、主に委ねましょう。主は奇蹟を起こしてくださいます。ペテロは、若い人たちにも、手紙を受け取ったすべての人にも、勧めています。「この恵みの中に、しっかり、立っていなさい」(12節参照)ということです。謙遜を身に着け、神の前にへりくだり、思い煩いを神に委ね、目を覚まして、信仰の戦いに勝利することです。「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」(9節)。「思い煩い」は、負のスパイラルです。アリ地獄です。もがけばもがくほど、滅びの中心に引きずり込まれてしまいます。一方、「委ねること」は、正のスパイラルです。次々と重荷から解放されます。荷が軽くなります。上へ上へと引き挙げられる生き方です。思い煩いを神に委ねて、主の奇跡、解放、勝利の人生を体験しましょう。

清宣教師