まず、1節~2節ですが、ここで大事なことは、「旧約聖書の預言者たちによって語られたみことば」と「使徒たちによって語られた救い主イエスの命令」と記されていることです。つまり、「旧約聖書」と「新約聖書」のふたつが結び付けられています。これこそ、主の再臨を確信し、主を知る知識を確信し、純真な心を奮い立たせるものだからです。次に、3節~7節では、偽教師による再臨信仰に対する揺さぶりに関して言及しています。偽教師たちは、再臨信仰をもつものに対して、激しいあざけりと強い反論によって、揺さぶりをかけてきました。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」 と主張したのです。それに対して、ペテロは、彼ら偽教師たちは、重大なことを見落としている、と指摘しています。それは、今の天は古い昔からあり、地は創造主なる神のことばによって水から出て、水によって成ったこと、そして、当時の世界は、創造主なる神によって、ノアの時代の大洪水におおわれて滅んだこと、この創世記に記されている、大激変を見落としていることを指摘しました。さらに、今の天と地は、創造主のみことばによって保持されているが、それは、やがて、火によって焼かれる日が来るまでなのだ、と指摘しました。そして、あざける者たちの生活の実態を見抜いて、彼らこそ聖書に預言されているように、まさに終わりの日に現れる欲望のままに生活する滅びの子であることを知るように警告しています。8節~13節では、それでは、再臨はなぜ遅れているように見えるのか、という問題を取り上げています。まず、それは人間と神との間の認識の違いです。被造物である人間は、時間を超えることはできず、時間によって支配され、時間に制限される存在です。一方、創造主なる神は、時間を創造された方であり、時間に制約されるお方ではありません。また、主が何もされないので再臨が遅くなっているのではありません。そうではなく、主は、憐れみ深い方であり、忍耐深くあられるので、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。つまり、人間の側が、再臨に備えるために何もしていないので遅れているのです。一方で、この世はますます悪に染まっています。ですから、神の介入の時が近づいているのです。主の日が近づいています。そして、最終的には、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされることが定まっています。ですから、この主の再臨に備えて、聖い生き方をする敬虔な人になるように勧めています。人類の未来は、最終的に主の再臨にかかっています。この再臨の日を早めるためにも、私たちは、神の日の来るのを待ち望むことが求められています。14節~18節では、最後の勧告がなされています。「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」再臨を待望するクリスチャンにふさわしい生き方として、聖い生活を追い求めること、福音宣教に努めることなどを挙げています。また、主の再臨を確証するものとして、パウロの手紙を含む、聖書個所を示しています。なぜ、ここでパウロの手紙が引用されているのか、その理由を考えてみます。まずは、ペテロとパウロの間には対立があるといううわさがあったようです。それで、ペテロはパウロのことを取り上げて「私たちの愛する兄弟パウロ」と尊敬をもって記すことにより、両者には信仰の一致、聖書理解の一致があることを示す必要があったと思われます。それだけ、この再臨の信仰は重大な神学的な課題でした。そして無節操な者たちの騙しごとに誘われないように、自分たちの堅実さを失わないように注意しています。最後に、キリストの恵みと知識において成長することを強く勧めています。そして、頌栄で閉じています。

清宣教師