クリスチャンは、ある意味、戦いが避けられません。それは肉の欲望との戦いです。クリスチャンとして生きることを目指すなら、自己中心の古い自分自身との戦いが避けられません。もうひとつ、古い自分自身だけでなく、世というものがあります。私たちは、世に生きてきました。しかし、その世はサタンの支配するところであり、神に敵対する考え方によって支配されているところです。「世を愛することは神に敵対することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」とヤコブは、鋭く指摘しています(4節)。ということは、世に対しても、戦うことが求められています。世と戦うことはその背後にあるサタンとの戦いを意味しています。そのサタンとは、人知をこえた知恵と力をもっている存在です。それでも世に勝つことが出来るのでしょうか? ヤコブは、「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去ります」とアドバイスしています(7節)。まず、神に従うことが、サタンに立ち向かうための備えです。イエス様が、あの最後の晩餐が終わり、ゲッセマネの園に出かけられる前に、弟子たちに最後のことばを残したとき、こう言われました。「あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネの福音書、16章33節後半)。そして、ヤコブは、3つのことを指摘しています。第1に、「神に従いなさい」(7節)、第2に、「神に近づきなさい」(8節)、第3に、「主の御前でへりくだりなさい」(10節)ということです。主の御前でへりくだるときに、主がわたしたちを高くして下さいます。サタンは巧妙です。いつのまにか、私たちはサタンの術中にはまり、自分を高め、自分を正しいとし、他人を裁いて罪に定めていることが多いように思います。自分が苦しい時、悲しい時、泣く時に、その誘惑もまた大きいのです。ヤコブは、むしろ、「苦しみなさい、悲しみなさい、泣きなさい」(9節)と言います。苦しみ、悲しみ、泣くことも、成熟したクリスチャンとして受け取るべきもののひとつなのです。そこから他者をみて裁いたり、絶望することはないのです。自分の現状を落ち着いて受け取るべきなのです。神の前にへりくだり、自分自身を認めることです。そのとき、主が勝利を与えて下さいます。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼するなら、あなたがたは力を得る」。ですから、神に従い、神に近づき、主の御前でへりくだることが、サタンに対する最大の防御であり、勝利の秘訣なのです。最後の13節~17節ですが、ある人は、大きなビジョンをもち、人生の計画をもち、エネルギッシュに生きています。しかし、神を抜きにした人生の計画はむなしいものです。明日のことはわからないのです。むしろ、成熟したクリスチャンは、「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」(15節)という人生を送るべきなのです。この世の影響は大きいので、クリスチャンであっても、いつのまにか、誇り高ぶって、生きようという世の波に呑込まれてしまう危険があります。一方で、自分はダメだ、劣等感の中に陥っているひとがいます。それは誇り高ぶる生き方とは、一見、真逆のように見えますが、実は、世の波に呑込まれているという点では同じなのです。成熟したクリスチャンは、世の波に呑込まれない人です。世の生き方、価値観に敢然と背を向けて、創造主なる神の前に、へりくだり、神が良しとする生き方に留まる人です。主が私たちひとりひとりを成熟したクリスチャンへと導いて下さいますように、お互いに祈り合いましょう。清宣教師