この5章では、3つのテーマを取り上げています。第1に、富を持つ者への責任と裁きの警告です(1節~6節)、第2に、成熟したクリスチャンが示す忍耐に伴う慰めです(7節~12節)。成熟したクリスチャンへの祈りの勧めです(13節~20節)。まず、聖書は、決して富自体を非難してはいません。しかし、経済的な格差やそれに伴う差別などが生じないように、富を持つものに対して厳しい警告をしています。当時の社会の富といえば、穀物、着物、金銀の3つでした。ヤコブは、その一つ一つに対して、「腐る」、「虫に食われる」、「さびがつく」といって、永遠に頼りになるものではないことを明らかにしています(1節~3節)。まず、「労働者への未払い賃金」のような不正を指摘しています。次に、「ぜいたくに暮らし、快楽にふけり」という利己的な使い方を指摘しています。このような使い方の結果、経済的な格差が起こり、結果として、貧しい人たち、弱い人、正しい人をしいたげることになるなら、そのような生き方は、キリストを十字架につけた罪を犯し、神の民を傷つける罪を犯すことになる、と警告します。そのような者たちは、必ず、最後の審判の日に、厳しい裁きを受けることになるのです。次の7節~12節ですが、3つの事例をあげて、忍耐の報いについて述べています。まずは農夫(7節~9節)、つぎに預言者たち(10節)、最後にヨブ(11節~12節)の例です。農夫たちは、まず麦の種を蒔くためには秋の雨を待ちます。次に収穫のためには春の雨を待ちます。農夫たちは忍耐をもって黙々と農作業をして収穫の時を待ちます。それから、預言者たちも、預言したことがすぐに成就したわけではなく、忍耐をもって預言の成就の時をひたすら待ちました。さらに、あのヨブは、ただ神の前にある主の証し人としての役割のゆえに多くの苦難をただ、ただ、忍耐して主の介入の時を待ち望みました。そして、ついに、神からの応答を受けることが出来ました。農夫の例にしても、預言者の例にしても、ヨブの例にしてもみな、ただひたすら忍耐をもって待つことを要求されました。同様に、あなたがたも迫害と苦難の中にあるけれども、忍耐をもって最後に審判の時を迎えるなら、必ず、神からの正当な報いを受けることが出来るのだと、ヤコブは、聖徒たちを励ましています。次に、13節~20節ですが、ヤコブは、4つの祈りを勧めています。まず、苦しんでいる人たちのための祈りです(13節)。これは罪の結果でもなく、神の懲らしめでもなく、福音のゆえに災難に会っている人たちのための祈りです。現在も、北朝鮮、中国、ロシア、イスラム圏の諸国のクリスチャンたちが苦難をうけています。次に、病気の人たちのための祈りです(14節~16節)。初代教会のクリスチャンたちは、激しい迫害の中で、ローマの地下にあるカタコンベ(共同墓地)に隠れて共同生活していたとの記録があります。ここでは、教会の指導者にオリーブを塗ってもらい、癒しの祈りをしてもらうように勧めています。次に、国民のための祈りです(17節~18節)。その模範として預言者エリヤが登場します。エリヤのように、国民のためにリバイバル(恵みの雨)を求めて祈る、執り成しの祈り手が必要です。ここでヤコブは、わざわざ、「エリヤは、私たちと同じような人でした」と述べています。私たちも、新型コロナウィルスの災禍のもとにある今、日本の国民が、まことの神である創造主なる神のもとへ立ち返るように祈るように招かれています。次に、迷い出た人たちのための祈りです(19節~20節)。キリストを知るように、救いにあずかるように祈ることは大事です。同時に、キリストを知ったにもかかわらず、迷い出てしまった人たちのために祈ることも愛のわざのひとつであり、多くの罪を覆う働きとなる、とヤコブは指摘しています。主よ。どうぞ、私たち一人一人に、祈りの霊を豊かに注いでください。

清宣教師