さて、これまでの手紙のスタイルは、差出人、受取人、挨拶というものでした。ところが、ヨハネの手紙、第1では差出人も受取人も記されていません。この手紙には、確かに差出人の個人名は出てきませんが、当時の状況下では、長老と記しただけで、誰もが、あの人であると分るとすれば、使徒ヨハネ以外にないというのが、一般の研究者の見解です(第2、第3の手紙参照)。12使徒たちは、ほぼ殉教の死を遂げていますが、ヨハネは小アジアのエペソの教会の監督でした。紀元70年、ローマに反逆したユダヤ人の首都、エルサレムが陥落し、ユダヤ人はそれ以来、全世界への離散の民となりました。そのあと、キリスト教の中心は、エルサレムではなく、小アジアに移ります。小アジアのエペソの監督であるヨハネは、このとき、ヨハネの手紙を書いたと思われます。その後、ヨハネは、捕えられて、パトモスの孤島に流刑となり、晩年を迎えることになります。第1の手紙の中に頻繁に見られることばは、「光」「いのち」「愛」ということばです。この手紙を書いた目的はなんでしょうか?手紙を書かなければならないところのどのような事情があったのでしょうか?当時、迫害が一段落して、教会は落ち着きと平和を取り戻しました。その平和の中で、教会の中に偽りの教えが入ってきたのです。平和のときは、いろいろと学びます。そこで、ギリシャ的な教えが教会の中にも入ってきたようです。その代表的な偽りの教えが、グノーシスの教えでした。これは、霊と肉体の二元論の思想です。ギリシャ思想は、霊は善、肉体は悪という思想です。だから、キリストが悪である肉体をとられるはずがない、受肉ということはありえないという思想です。キリストは肉体をとっているように見えただけで、本当は肉体をもっていなかったと主張するのです(仮現論、ドケチズムと言います。念のため、これはギリシャ語であり、日本語のドケチとは関係ありません!聖書の教えを否定する間違った思想です)。もうひとつ、実生活でも、この思想は放縦な生活をもたらすものとなりました。本質的に、霊は善であり、肉体は悪であるとするなら、霊は悪に影響されず、肉体も善にはなりえない。とするなら、肉の赴くままに生活しても本来、善である霊は影響をうけず善を保つのだから、どんな生活を送っても良いという思想です(これも聖書の教えを否定する間違った思想です)。このような思想に影響された教会の人たちに対して、ヨハネは、明確に、イエス・キリストは肉体をもって受肉されたことを証しするのです。1節で、ヨハネはイエス・キリストのことを、聞いただけでなく、見ただけでなく、手で触ったと証しています。つまり、実際に肉体をもっておられたのだということを強調しています。福音を骨抜きにするギリシャ思想が教会に入り込んできたのです。今で言えば、ちょうど、進化論思想が、教会に入り、聖書と福音を骨抜きにしようとしているのと似ています。いつの時代にも、聖書によらない思想が入り込む危険があります。キリストご自身が唯一の真理であり、唯一の道であり、唯一のいのちです。さて、この手紙を読むと、ヨハネがこの手紙を書いた目的が、何度も何度も、繰り返し、記されています(1章4節、2章1節、13節、14節、21節、5章13節参照)。これを見ると、ヨハネは、クリスチャンのひとりひとりが「世に勝つ者」となることを、切に願って書いたものであることが伝わってきます。ヨハネは、神によって召された私たちクリスチャンにとって、心の名医であり、魂のカウンセラーであり、経験豊かな牧師として、とても大事なことを語ってくれます。まっすぐに真理を語り、しかも、分り易く語っています。また、実際的な生活の指針を示してくれます。期待をもって、ヨハネの手紙を読んでください。

清宣教師