冒頭の1節ですが、ギリシャ語の語順は、「見よ。なんという驚くべき愛・・・」となっています。私たちが神の子どもと呼ばれるのに父なる神はどんなに素晴らしい愛を与えて下さったことでしょう。事実、いま私たちは神のこどもです。アーメン。父なる神様の愛の中で、神の家族の一員としてあたらしく生まれたのです。そして、神の子としての性質をいただいたのです。それは聖霊様のお働きによるのです。そして、キリストの再臨の時には、私たちはキリストのありのままの姿を見ることになるのです。他の聖書個所でも、このことを明確に記しています。再臨の日には、顔と顔を合わせて、キリストにお会いするのです(コリント人への手紙、第1、13章12節)。そして神は、私たちの身体をも、ご自身の栄光と同じ姿に変えてくださるのです(ピリピ人への手紙、3章21節)。今、地上では、聖霊様がそのみわざを進めておられますが、やがて、再臨の日にはそれが完成するのです(コリント人への手紙、第2、3章18節)。次に、ヨハネは、神の子と悪魔の子を次のように識別しています。神の子とされた者は、キリストのうちにとどまる者であり、罪を犯さないこと、一方、罪を犯す者は、悪魔から出た者であるというのです。何故なら、悪魔は初めから罪を犯しているからです。つまり、悪魔と罪は切り離せない存在です。そして、悪魔は私たちに罪を犯させては罪の奴隷、悪魔の子としました。しかし、幸いなことに、神の御子が来てくださり、悪魔のしわざを打ち壊してくださいました。クリスチャンは、罪を罪として認めて、罪を告白し、神の前に罪を赦していただくものとなったからです。クリスチャンは罪を愛するものではなく、罪を憎むものとなったのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします、とヨハネは指摘しています。そこで、具体的な課題をひとつ取り上げています。兄弟を憎むものは、神の子ではないというのです。創世記に登場するカインは自分の弟を憎み、殺してしまいました。何故なら、カインは悪く、弟アベルが正しかったからです。それを認めることなく、むしろ、弟を抹殺したのです。兄弟姉妹を憎むものは、みな、人殺しです。そして、人を殺す者のうちに永遠のいのちがとどまっていることはないと警告しています。つまり、悪魔は絶えず、兄弟姉妹の間に誤解や偏見や裁きを作り出し、互いに憎み合うように策略しているのです。これこそ、クリスチャンが最もかかりやすい罠であることを知っているのです。創世の最初にアダムとエバの間に、そして、カインとアベルの間に、プライドを植え付け、互いにさばき合うように仕向けて成功しているのです。この巧妙なサタンの策略は、いまも、成功していると思われます。ですから、ヨハネは、父なる神のように、兄弟姉妹を愛する者として生きるように勧めています。そして、兄弟姉妹が困っているなら、憐みの心を閉ざすことなく、行いと真実をもって愛するように勧めています。具体的に、世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか、と勧めています。そして、繰り返しています。もっとも重要な勧めだからです。「神の命令とは、私たちが互いに愛し合うことです。 神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます」(24節)。ヨハネは、世の終わりには、愛が冷えて、兄弟姉妹が互いに憎みあることを知っていたからです。ヨハネは、声を大にして、神の愛、そして、互いに愛し合うべきことを訴えているのです。

清宣教師