1節で、霊だからと言って、みな信じてはいけないと言っています。物質だけがすべてだと信じて生きてきた人が、ある信じられない出来事を境に、霊の存在を信じることがあります。この場合は、これまで否定したことが破られたので、今度は逆に霊ならみな信じてしまうという危険性があります。もともと、物質も、霊も存在します。聖書は、霊には2種類あると言います。真理の霊と偽りの霊です。聖い霊と悪霊です。だから、クリスチャンは見極めることが出来なければなりません。イエスを告白する霊は神からのものです。しかし、人としてお生れになられた神の御子イエスを告白しない霊は神から出たものではありません(2節、3節)。当時、偽預言者たちが大勢おりました。それを見分けるための試金石が、この告白でした。今でも、この試金石は通用するものです。また、偽預言者たちの特徴のひとつは、この世に迎合する教えを語ることです。あるいは、利得の手段として語ることです。イエス様も、偽預言者たちを識別する試金石として、その実を見るように言われました。良い木は良い実を実らせるのです。その人の生活、その人の終わりを見ることです。羊の皮をかぶった狼がいるのです。サタンはいつも自分の正体を隠して行動してきました。創世の時代、当時もっとも賢く美しく見えた蛇の姿をしてエバを誘惑しました。今も、その手口は変わりません。とても魅力的な姿をして誘惑するのです。美しく、賢く、成功への道をひらくような教えとして誘惑するのです。さて、父なる神は、ひとり子であるイエス・キリストを世に遣わされました。そして、御子によって私たちを罪から救い、永遠のいのちを与えてくださいました。ここに、真の愛(アガペーの愛)が示されました。だから、神の子とされた私たち、神の御霊を受けている私たちも、この世において、兄弟姉妹を愛することが求められています。「目に見える」(20節)とは、いつもそば近くにいるクリスチャンの兄弟姉妹のことです。もし兄弟姉妹を憎むのなら、その人は偽り者です。「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。」これは父なる神の命令です。この命令をキリストにあって、私たちは受けています(21節)。特に、兄弟姉妹から裏切られたと感じている時、このことはとても難しく、不可能のように思えます。このページを破いて聖書から取り除きたく思うかも知れません。しかし、このみことばは、命令として書かれています。それは、私たちにとって最大の難関である課題ですが、しかし、この命令は、私たちにとって最大の難関の向こうにある、人生最大の祝福への扉であるからです。この命令に従うなら、クリスチャン人生の中で最高の祝福へと入ることが出来るのです。もう一度、振り返ってみましょう。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」、「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています」。この終わりの時代において、私たちのうちにアガペーの愛が豊かに注がれますように、どうか、御霊の実を豊かに結ばせてください!

清宣教師