1節~5節では、神の家族の姿が描かれています。神の家族は、どのようなものでしょうか。みんな神によって生まれた兄弟姉妹です。ですから、お互いに愛し合っています。「お互いに愛し合いなさい」という神の命令を家族一同で守っているのです。それは決して実行が不可能な規則ではありません。何故なら、神の家族は、神によって新しく生まれた者たちであり、神のいのちをもっているからです。そのいのちとは、愛のいのちです。これまでは、いろいろと道徳的な規則で縛られても実行不能でした。しかし、今は神の子としてのいのちをいただいているので、この命令は重荷ではなくなりました。キリストを信じて、聖霊によって新しく生まれた者にとっては、神の命令を守ることが喜びなのです。神の家族には、信じること、愛すること、従うことの3つが備え付けなのです。もし備え付けでなければ苦痛であり、重荷となってしまいます。しかし、神の家族の一員になった者には、神がその性質を付与してくださるのです。だから、重荷ではなく、むしろ、喜びなのです。実行することが喜びなのです。世に勝つ勝利者の経験をするからです。このような素晴らしい体験が出来るのは、「イエスを神の御子と信じる者」となったからです(5節)。もし、実行できないと言って失望している方がおられるかも知れません。しかし、私たちの力で成し遂げるのではなく、主が成し遂げてくださるのです。よく考えてみれば、私たちの肉の力で実行できないのは当たり前のことなのです。コリント人への手紙、第2、12章9節を見てみましょう。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と記されています。神様は、私たちを神の家族として召してくださいました。それはお互いに家族の一員として愛するためです。その計画を実現してくださるのは神ご自身です。その計画の確かさを信じて待ちましょう。主に信頼して委ねましょう。私は弱いものです。キリストの力で覆ってください。私たちの教会をキリストの力で覆ってください、ともに祈りましょう。さて、6節~12節では、正しい信仰告白に立つものは神の証しを信じる、という内容です。「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です」(6節)。イエス様は、水(バプテスマ)を通して、さらに、血(十字架)を通して、来られました。バプテスマにおいては、私たちと同じ人であることが証されました。そして、十字架においては、私たちの救い主、神の御子であることが証しされました。このふたつの歴史的事実を私たちの心に絶えず証し続け、わからせてくださるのは聖霊なる神のお働きです。聖霊がそのように証してくださるのは、第1に、聖霊が真理であるからです(6節)。第2に、旧約聖書の定めにより、水、血、そして聖霊の3つがあかしすることによってその証言が確定するからです。申命記17章6節に、ふたりまたは3人の証言によって、その証言が確定すると記されているとおりです。そして、このいのちが御子イエスの内にあると信じる者こそ、永遠のいのちを持つのです。13節~21節は、正しい信仰告白に立つものは確信を持つ、という内容です。イエス・キリストを信じる信仰に立つものは、第1に、いのちを持っているという確信を持つことが出来ます。第2に、祈りについて確信を持つことが出来ます。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」。第3に、自分は神のものである、という確信です。最後に、ヨハネは、愛をこめて「子どもたちよ」と語りかけ、偶像を警戒するように忠告しています。創造主主なる神から引き離そうとするサタンの策略を警戒しましょう。

清宣教師