ヨハネの手紙、第3も、短い手紙ですが、受取人は「ガイオ」という人物です。ガイオという名前は、コリントでパウロからバプテスマを受けたガイオ(ローマ16章23節)、パウロの第3回伝道旅行に同伴し、エペソにある期間滞在していたマケドニヤ人のガイオ(使徒19章29節)、あるいは、パウロの第3回伝道旅行に同行したデルベ人のガイオ(使徒20章4節)のいずれかのガイオなのか、あるいは、当時はありふれた名前で、これ以外のガイオかもしれません。さて、この手紙でも、第2の手紙と同じように、まず最初に「私はあなたをほんとうに愛しています」と記しています。ガイオという人物は、使徒ヨハネと非常に親しい間柄だったようです。さらに、使徒ヨハネは、「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」と記しています。ひょっとしたら、ガイオは病気であったのかもしれません。霊、魂、体のすべてにおいて健やかであるように願っています。一方、ガイオの家の教会の兄弟姉妹が真理に歩んでいるという証しは、長老ヨハネのもとに届いており、ヨハネを喜ばせていることを記しています。彼らはクリスチャンにふさわしく、真実な愛をもって、旅人たちのお世話をしておりました。とくに、当時の宣教の拡大は、使徒たちや預言者、伝道者たちが見知らぬ地へと出て行って福音を宣べ伝えた結果でした。そのために、宿を提供して、お世話をしてくださるクリスチャンの兄弟姉妹の存在はとても大きな役割を果たしていました。つまり、彼らは、自分自身が巡回伝道者(使徒や預言者や伝道者)ではありませんが、彼らの同労者としての役割を果たしていたのです。しかも、ガイオの場合、「神にふさわしいしかたで」もてなした(6節)と記しています。ガイオの家に泊まった巡回伝道者のひとたちが、そのように証していたのです。使徒パウロたちも、このようなクリスチャン兄弟姉妹のお世話によって励まされ、力づけられて、次の目的地に旅立ったに違いありません(3節~8節)。一方、教会の中にはデオテレぺスのような人がいます。「彼らの中でかしらになりたがっているデオテレぺスが、私たちの言うことを聞き入れません。」(9節~10節)。それで、使徒ヨハネは、教会の秩序に従わない、デオテレペスを退けるつもりであることを宣言しています。同時に、彼のようなものが再び、教会の中に現れないように注意しています。「悪を見習わないで、善を見習いなさい」と勧めています(11節)。この手紙の目的のひとつは、デオテレペスという、使徒ヨハネの指導にも従わない、教会の中でかしらになりたがっている人物について、ガイオと会って、個人的に相談したいということを伝えることにありました。一方で、使徒ヨハネはデメテリオという人物について、その信仰の確かさについて保証しています。おそらく、ヨハネは、このデメテリオに手紙を持たせて、ガイオのところに派遣したのだろうと言われています。ヨハネは、もっと書き送りたいことがあるけれども、直接、顔と顔を合わせてお話ししましょう、と記して、この手紙を締めくくっています。さて、教会でも、対人関係に関する問題が起こります。しかし、すべての問題は祝福の門口です。解決を通して成長することこそ、主のご計画です。最後に一言、ヨハネはパトモス島への島流しの刑を受けたのち、そこで、世界の最終的な破滅と裁きが記録されている黙示録を記しています。愛に生き、愛を説いた使徒ヨハネが黙示録を書いているということに私は神様の深いご配慮を感じます。主なる神様は、このヨハネの手紙(第1~第3)を通して、「神は愛です」という大前提を強調して、そのうえで、黙示録の終末の預言を伝えたかったのだと思うのです。

清宣教師