この10章は、第7のラッパが鳴る前の小休止の部分です。ここにもう一人の御使いが登場します。「雲に包まれて」という表現は、主イエスの昇天や、再臨の様子に使われている表現です。神の臨在と栄光を表すのに最も優れた描写であると言われます。つまり、他の御使いとは一段と異なる権力の持ち主であることを表しています。その頭上には虹があり、その顔は太陽、足は火の柱のようでした。これらの描写は、まさに、黙示録1章で示されたイエス様のお姿に非常に良く似ているので、多くの注解者は、神の御子、イエス様のことであると解釈しています。2節の「右足は海の上に、左足は地の上に」置かれていることは、海も、地も、所有されていることを意味しています。申命記の中で、「あなたがたの足の裏で踏むところは、ことごとく、あなたがたのものとなる」と記されていることから分ります。3節、神の御声は7つの雷が語るように聞こえました(詩篇29篇3,4節、ヨハネの福音書12章28節~30節参照)。ヨハネは、幻や御使いのことばを最大限の努力をもって、聞き逃すことがないように書き記しておりました。ところが、4節で「7つの雷が言ったことは封じて、書き記すな」と言われています。7つの雷のような大音量の主の声が響きましたが、しかし、それをメモしようとしたとき、理由は不明ですが、メモすることを禁じられました。人間には知ることが出来ない部分があるのです。おそらく、神の御計画の時があり、それまでは秘密にされる必要があったのだと思います。5節~7節で、「右手を天にあげて、・・・誓いました。」主はご自分をさして誓われました(へブル6章13節参照)。「もはや時が延ばされることはない」と宣言されました。時が延ばされるとは、ペテロの第2の手紙、3章9節にもありますが、主は人々の悔い改めのために裁きの時を伸ばして待っておられます。しかし、もはや裁きは延ばされることはないというのです。第7の御使いがラッパを吹きならす時が来ているのです。ラッパを吹き鳴らすなら、裁きが行われます(11章15節)。8節~11節には、ラッパが吹き鳴らされる前に、ひとつの出来事が挿入されています。天からの声があり、ヨハネは開かれた巻き物を受け取るように命じられました。そこで御使いのところに行くと、その巻き物を取って食べなさいと言われました。そこで、ヨハネは御使いの手から小さな巻き物を受け取り、食べると蜜のように甘いものでした。しかし、口の中では甘かったのですが、それを食べて腹におさめると、腹が苦くなりました。そのとき、巻き物に書かれてあることを全世界の人々に預言するように命じられました。これに似たことを旧約時代の預言者であったエゼキエル(エゼキエル書2章8節~3章3節)や、エレミヤ(エレミヤ書15章16節)も体験しています。神のことばの巻物を食べるとは、すべて余すところなく、100%受け入れることを意味しています。そして、預言するように命じられました。みことばを食べる時、私たちは、それを語りたいという情熱が心の中に燃え上がります。ところで、みことばは口の中では本来,蜜のように甘いものですが、腹におさめるとき、多くの迫害や苦しみを伴う神の裁きの預言でしたから苦いものとなった、と考えられます。

清宣教師