ある注解者(複数)は、3章と4章との間に、『携挙』(けいきょ)があったと理解しています。4章1節の後半では、「この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」と言われています。ですから、4章からは、1章19節に記されていた「この後に起こること」が具体的に記されていることが分ります。つまり、4章からは、大患難時代のことを描写しています。地上では、大混乱のただ中にありますが、天の門が開かれて贖われた民が入ってくるのを待っています(4章1節)。大患難時代を前にして、マタイの福音書24章40節~42節、ルカの福音書17章34節~35節などで、イエス様が預言されているように、二人が、畑で働いているとき、あるいは、臼をひいているとき、あるいは、ベッドで寝ている時、ひとりは取られ、他のひとりは残されるというのです。真実のクリスチャンたちは、大患難に遭わないように、あらかじめ、天に挙げられるのです(テサロニケ人への手紙、第1、4章16節、17節参照)。地上に残された人たちは、生ぬるいクリスチャンや未信者たちです。しかし、大患難の中で、地上に残された人たちの中からも、悔い改めるひとたちが起こされるといいいます。それでは、4章2節以降の解釈に入ります。まず、開いた門があります。旧約聖書に登場するエルサレムも城壁で囲まれており門がありました。イエス様ご自身も、ご自分のことを「私は羊の門です」(ヨハネの福音書10章7節)と言われています。イエスご自身が門となって羊たちの出入りを守られるというのです。その天の門は開いていました(1節)。イエス様は、かつて「狭い門から入りなさい」と言われました。「滅びに至る門は大きくその道は広いからです」とも言われました。この開いた門から入ることが出来る人は、幸いです。「ここに上れ」と言われて、ヨハネは素晴らしい光景を見ることになります。旧約聖書の中で、荒野のイスラエルの民が神を仰ぎ見た時に目撃したのは、「御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった」(出エジプト記24書10節)と記されています。ヨハネは、御座においでになる方を「碧玉」や「赤めのう」という輝く宝玉の色で示しています。御座の周りは「緑玉」のように見える虹でした。次に、御座の周りに24の座があり、24人の長老たちが白い衣(聖化のしるし)を着て、金の冠(勝利のしるし)をかぶった長老たちが座っている姿をみました。被造物にとっては直接、肉眼で見ることが出来ない天の御座ですが、ヨハネは美しい宝石に例えて、その光輝の素晴らしさを伝えています。ここではいずれも、「・・・のように」と表現しています。今まで見た事がない光景を、今まで見た事のあるもので表現するのは、とても難しかったと思われます。空中を引き裂かんばかりの稲妻と雷鳴の衝撃でした。衝撃的な最大級のうねりが御座から発していました。同時に、御座の前では、7つの御霊が、7つのともしびとなって赤々と燃えあがっていました。7は完全数です。7つの御霊は、御座の前で完全なかたちでその霊的な力を発揮していたようです。天の御座の前には、広大な光輝く水晶の海、ガラスの海のようなものがありました。そして、ヨハネは最後に4つの生き物を見ました。これはエゼキエル書1章5節~28節、10章14節にも登場します。細かい点は異なりますが、第1に、獅子のような、第2に雄牛のような、第3に人間のような、第4にわしのような顔をもつ生き物でした。エゼキエル書では、これらはケルビムと呼ばれる神に仕える存在として説明されています。そして、4つの生き物たちの賛美(8節)、それから24人の長老たちの賛美(11節)が紹介されています。ケルビム天使は、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな・・・」と、昼も夜も絶え間なく賛美をして、神に仕えています。長老たちは、自分たちの冠を神の前に捧げて、告白します。「あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」。この礼拝の光景は、次の5章まで続いています。私たちの神は、万物の創造主であり、万物の支配者であられます。

清宣教師