ヨハネは、黙示録の12章1節で、天に巨大なしるしが現れたのを見ました。それは「イスラエルを表す女」でした。次に、12章3節で、もうひとつのしるし、「サタンを表す赤い竜」を見ました。この15章では、もうひとつの巨大な驚くべきしるしを見ることになりました。それは「最後の7つの災害を携えた7人の御使いたち」でした。いよいよ、7人の御使いが最後の災害をもたらすべく、登場します。天の聖所が開き、その聖所から7つの災害を携えた御使いが出てきました。6章8節の封印の審判では、地の4分の1が滅ぼされました。9章18節のラッパの審判では、人類の3分の1が滅ぼされました。そして、この15章~16章では、地上の人々は、ことごとく滅ぼされるのです。審判者は主イエスですが、その執行者は天使たちです。そして、金の鉢が傾けられて、裁きが実行されていきます。主の審判について、預言者エゼキエルは、次のように語っています。「あなたがは『主の態度は公正ではない。』と言っている。さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正ではないのか、公正ではないのはあなたがたの態度ではないのか。」(エゼキエル書18章25節)。パウロは次のように語っています。「それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ人への手紙9章14節)。全き義なる方が裁きをなされるので、間違いはないのです。神は愛です。同時に、聖なるお方、義なるお方です。不義なるものへの神の怒りが究極的に表されるのです。「神の怒り」は、ギリシャ語で「テュモス」ということばで、黙示録では10回使用されています。なにしろ、地上では獣が神に反抗する者たちを一つにまとめて、クリスチャンへの迫害が極限に達し、クリスチャンたちを滅ぼし尽くしたのです。ですから、神の怒りと裁きは避けられないのです。この不当な迫害で殉教した人たちはみな、天に召された後、神の竪琴を手にして、賛美の姿勢をとり、神のご計画がどのようになされていくのか、静かに見守っているのです。この賛美は、「神のしもべモーセの歌」と「子羊の歌」でした。出エジプトによる神の民の解放とエジプト軍の壊滅の時を思い出して、昔、神の民が紅海のほとりで賛美したように、いま、ガラスの海のほとりにおいてモーセの歌を歌うのです。人類の最大の敵であるサタンの力からの完全な解放の歌です。そして、解放者はモーセではなく、私たち人類のために十字架において血を流された小羊である主イエスなのです。ゆえに、紅海の昔をしのびつつ、子羊の歌を歌うのです。今や、地上に残っている者たちは、反逆と悪に満ちた、悪魔化した者たちだけです。ですから、純然とした神の怒りの審判が行われて、すべてが滅ぼし尽くされるのです。5節には、天の中心である場所、つまり「あかしの幕屋の聖所が開いた」と記されています。このあかしの幕屋の聖所から7人の御使いが出てくるのです(6節)。古来、地上でのイスラエルの民たちの礼拝の中心は、あかしの幕屋と呼ばれ、会見の幕屋とも呼ばれた場所でした。そこはこの地上で神ご自身が臨在される最も聖なる場所でした。そこには、一年に一度だけ、大祭司が贖いの血潮を携えて入ることが許された神聖な場所でした。これは最も聖なる場所でしたが、これは天の聖所の影にすぎませんでした。この黙示録15章5節に記されているのは、この地上のあかしの幕屋の本体である「天の聖所」のことでした。神ご自身の臨在の中心的な場所です。そこから、御使いたちが出てきたのです。つまり、7人の御使いたちは、聖なる神ご自身からの直接の命令を受けて出てきたのです。どんなに重要な使命を帯びていたのかが分かります。そして、4つの生き物のひとつが、神の怒りの満ちた7つの金の鉢を、7人の御使いたちに託したのです。すると、天の聖所は、神の栄光と神の大能からの煙で満たされました。そこには、もはや誰も入ることが出来ないこととなりました。つまり、永遠の神による最後の審判の判決は、もはや誰も止めることが出来ないものになりました。そして、この裁きが実際に、このあと、地上で実行されるのです。それにしても、主イエス様が「子羊」として表現され、このような状況においても、「小羊の歌」が歌われたことは、なんと慰めに満ち、平安をあたえる表現でしょう!!主よ、感謝します。

清宣教師