19章に入ると、一転して、ハレルヤの大合唱。「ハレルヤ」とは「主を賛美せよ」という意味のヘブル語です。「ハレルヤ」は、「アーメン」と共に世界の共通語です。再臨信仰は私たちを正しく神の国へ導くハンドルの役目を果たす、といわれています。キリストの再臨は、初代教会の宣教活動の中で、その中心部分を占める信仰を形作っていました。再臨を待望し、正しく受け止める時、私たちの信仰の人生は正しい目標に向かって走ることが出来るのです。贖罪によって、ユダヤ人と異邦人とが一体とされました。ここに天使たちも人間も一体化されて、全宇宙を鳴り轟かす大礼拝と大賛美が捧げられるのです。天の大群衆の賛美が聞こえてきます。この賛美の題目は、第1に、「神のさばきは真実で正しい」からです。つまり、神の真にして義なる審判に対してハレルヤと賛美しています。第2は、「彼女(地を汚した大淫婦)の煙は永遠に立ち上る」からです。つまり、悪行は徹底して壊滅したからです。第3は、「われらの神である主は王となられた」からです。つまり、救いと栄光と力とが神に帰したからです。24人の長老たちも、4つの生き物も、御座に着いておられる方を礼拝し、賛美を捧げます。さらに、7節で、大きな大きな賛美が響き渡ります。「子羊(イエス様)の婚姻の時が来て、花嫁(教会)はその用意ができたのだから」。ここで、花嫁は「きよい麻布の衣を着ることを許された」と記されていますが。これは自分で手に入れるものではなく、主から授けられるもの(神の義、神の聖)です。地上では裁きと大患難ですが、天においては大きな賛美があります。神に逆らって建設された罪悪の組織であるこの世は裁かれました。この世の国々はわがもの顔に地上の支配権を横領し、真の王である神を押しのけて争ってきました。しかしいまやそのような組織は崩壊しました。神ご自身がその統治をおこなわれます。小羊(神の御子、救い主イエス・キリスト)と教会(神の民、神の子たち)とが、宇宙始まって以来の神のご計画である婚姻の大祝典が実現する日です。神の子たちは、キリストと共に、御国の世継ぎとなるのです。11節~16節では、主が君臨される姿を描いています。12節の「王冠」とは、かぶるべきふさわしい者がかぶる冠(ディアデマ)であり、勝利者に与えられる冠(ステファノス)ではありません。王の王、主の主であるイエス・キリストがかぶるべき王冠です。ご自分は血に染まった衣をまとい、真っ白な、きよい麻布を着た天の軍勢を率いて来られる姿が描かれています。「忠実また真実」と呼ばれるかた、「神のことば」と呼ばれるお方です。そのお方は、「王の王、主の主」であるイエス・キリストです。15節をみると、主は「鋭い剣」(神のみことば)によって審判を行い、「鉄の杖」によって審判を行います。17節~21節で、神の大宴会が始まります。しかし、それは地上の悪い人間や獣にとっては呪いの宴会となります。地上のあらゆる権力者が、イエスに逆らい、イエスに対して戦いを挑みます。そして、サタンの化身ともいえる獣(反キリスト)と偽預言者が裁きを受けます。獣も偽預言者も捕えられ、火の池に投げ込まれます(20節)。地上は、死体で満たされます。そして、すべての黒幕であるサタン自身も、次の20章1節~3節で、裁きを受けることが記されています。最後に補足しますが、20章に登場する「千年王国」に関して、大別して2つの解釈があります。それは「千年期前再臨説」と「千年期後再臨説」です。なぜ解釈が分かれるか、という理由は、この19章が「主キリストの再臨」を示していると判断するかどうかにかかっています。なお、「無千年期説」というのも存在します。本来、聖書の解釈は、ただひとつであるべきですが、それぞれの説についての根拠となる考えは、それぞれの神学者が詳しく解説しているので、ここでは割愛します。ただ、私自身は19章11節~16節はキリストの再臨を示すものであり、キリストが王となり、千年間、この地上を治めると理解していますので、「千年期前再臨説」の立場ということになります。

清宣教師