さて、黙示録20章1節で、底知れぬところのカギを手にして、天から御使いが降りてきて、サタンを縛り、1000年の間、底知れぬところに投げ込み、そこを閉じました。こうして、サタンは諸国の民を惑わすことが出来なくなりました。それで、地上に、平和が訪れました。大患難時代に、イエスの御名のゆえに、殉教した人たち、イエスへの信仰を貫き通した人たちが生き返り、キリストと共に1000年の間、王として統治します。千年王国は、千年間にわたるキリストの統治です。サタンは縛られて、底知れるところに閉じ込められて、福音が文字通り実現して千年間のキリストによる平和を体験することになります。大患難時代を経て、すぐに新天新地に入るのではなく、神のご計画では千年王国が必要であったということです。神は、なぜ、千年王国をお与えになるのでしょうか。これは個人的な見解ですが、神のご計画は、繰り返しがあります。神の裁きにおいても、ノアの大洪水の裁きがあり、バベルの塔における裁きがあり、・・そして、千年王国におけるサタンの裁きがあります。神様は、とても慎重に裁きを進められています。サタンは千年王国の終わりに牢から解き放たれると(7節)すぐに、諸国の民を惑わし、神とその聖なる民に戦いをいどみ、滅ぼそうとします。つまり、サタンの性質は、まったく、変わっていないことが明らかです。サタンの罪の性質が不変であることが全宇宙、全被造物の前に明らかにされています。誰もが神の裁きに異論を唱える余地がまったくないのです。こうして、私たちを惑わしたサタンとその仲間にたいして、神が永遠の最終的な裁きを下されるのです。千年王国の期間を経て、万に一つもサタンは悔い改める可能性がないことを明らかにされました。神のご計画は、準備された過程をひとつひとつ経て、最終的な完成にむかうのです。創造の初めにおいても、神は6日間という準備された過程を経て天と地を完成されて、安息日を設けてくださいました。同様に、救われた人類が新天新地に迎えられるまで、主が備えてくださった完成へのプロセスが大事なのです。一方、大患難時代に殉教の死を遂げた人たちが復活して、キリストと共に千年の間、王となりました。あらかじめ、新天新地における永遠の統治の予行演習として必要な期間なのかも知れません。この第1の復活に与るものは、第2の死を受けることがないので幸いです(6節)。さて、1000年のあと、再び、サタンがその牢から解き放たれます(7節)。それで、サタンは、世界の諸国民を惑わします。8節のゴグは支配者、マゴグは国民と理解する人もいます。信じられないことに、あっという間に、手の平を返すようにして、サタンにつくものたちが増え拡がっていきます。海辺の砂のように、無数の者たちが心を翻して、主と聖徒たちに反逆します。再び、サタンの邪悪な力が明らかにされます。サタンとその仲間が根こそぎ滅ぼされない限り、平和はあり得ないことが明確にされています。ついに、最終的な審判が下り、天から火が降ってきて彼らを焼き尽くしました。そして、悪魔も、獣も、偽預言者も、永遠に苦しみの場に入れられます。さらに、旧い天と地は消え去ります。主の裁きがなされます。そこで、神の審判の光景が展開します。死んだ人々がみな生き返り、数々の書物に書かれている所に従って報いを受けます。「いのちの書」に記されている人たちも、各自が生前行ったすべての行いに従って報い(ご褒美、報酬)をうけます。その他のすべての死者たち、海難事故で死んだ人たちも生き返り(海も死者をだし)、他の死者も生き返り(死もハデスも死者をだし)、神の前で、おのおのの行いに応じて裁き(刑罰の宣告)を受けます。次に、死とハデスも火の池に投げ込まれました。これが第2の死です。「いのちの書」にしるされていないものはみな、この火の池に投げ込まれました。これが第2の死であり、永遠の裁きです。最後に大事なことを記します。私自身、この黙示録の学びは完成したものではありません。天国について、千年王国について、あるいは、義人や悪人の復活についても、学びの途中です。ただ、現時点で学んで得たことをみなさんの益になることを願って記したものです。これらの課題については、いくつかの参考書があります。それらの中には間違いも含まれます。所属する教会の牧師先生に相談して、その指導に従って謙遜に学ぶことをお勧めします。再度、強調しますが、黙示録は切り離された書物ではなく、聖書全体66巻の中の最後の1巻です。健全な解釈のためには、まず、聖書全体の学びを強くお勧めします。宜しくお願いします。

清宣教師