1章1節~2章3節では、一般的な名称である「神」ということばが用いられていましたが、2章4節からは、「神である主」という表現に代わりました。3章23節までの間に、「神である主」ということばが20回も繰り返されています。つまり、「神」とは「主」のことであると強調しているのです。「主」とは、ヘブル語で「アドナイ」と言いますが、そこには、ヘブル語で「YHWH」という、いわゆる聖4文字が記されています。つまり、神のお名前が記されています。最初から、お名前を出しても分らないので「神」という一般名称で紹介してから、それは「YHWH」というお名前の特定の神を指していると紹介しているのです。しかし、ユダヤ人にとって、神のお名前を直接、文字として書き記すのは畏れ多いので「主」という文字で置き換えたのです。日本語の聖書では「主」という字が太字になっていますが、そこには、本来「YHWH」というお名前が記されているのです。ヘブル語の「YHWH」をどのように音読するかは、「エホバ」とか、「ヤハウェ」と言われていますが、厳密には断定できません。次に、大事なことですが、1章と2章の関係です。1章は創造の御業の全体を記述したものです。2章は、その中の人間の創造に関してスポットを当てて補足説明したものです。1章は時系列で記していますが、2章は、人間の創造に焦点を当てて記しています。そのことを理解しないと「1章と2章の間には矛盾がある」とか、あるいは「1章と2章は別々の神話に基づいている」という解釈が出てくることになります。そして、聖書のみことばに対する信頼を失わせることになります。私の高校の友人は、そのような本を読んで教会を去ってしまいました。とても残念です。そうではなく、2章は、1章で書ききれなかったことを補足しているのです。まず、2章4節後半~6節の表現は、1章におけるアダムとエバの創造以前の様子を要約したへブル的な表現です。次に、7節~25節では、1章26節~30節では書ききれなかったアダムとエバの創造に関するエピソードを紹介しています。なぜ、アダムは一人の創造ではだめだったのか、ふさわしい伴侶者が必要だったこと、しかし動物の中にはふさわしい伴侶者は見つけることが出来なかったこと、アダムのからだから造られた、文字通り、アダムのベターハーフであるエバこそが、ふさわしい伴侶者であり、神がアダムのために特別に創造された存在であることなどが明らかにされています。ところで、2章4節に「これは天と地が創造された時の経緯である」という表現と、それに続く「神である主が地と天を造られたとき」という表現が出てきます。まず、1章1節~2章3節は、創造主なる神ご自身による記録であることを示しています。それで、天の視点から「天と地を創造された」(1章1節)で始まり、「天と地が創造された時の経緯である」(2章4節前半)という表現で閉じられています。しかし、2章4節後半以降は、「地と天を造られた時」という「地」の視点から記されています。「地」こそ、アダムとエバを始めとする全人類の住みかです。これ以降は、地の視点からアダムが記録したということになります(5章1節参照)。2章24節は、創世記の編集者であるモーセが、アダムとエバの結婚を、一般の結婚の原則として普遍化したもので、モーセが編集した際に書き加えたものと考えられます。もうひとつ、創造全体を振り返るとき、大事なことは、これらの創造はみな、成熟したかたちでの創造であったことです。アダムもエバも、赤ちゃんとしてではなく、精神的にも、肉体的にも成熟したものとして存在しておりました。その二人が結婚へと導かれたのです。そこから引き出される原則が、両親から経済的にも、精神的にも自立した男性が、妻と結婚するというものです。このアダムとエバの関係について、使徒パウロは「キリストと教会の関係を表す奥義である」と述べています(エペソ人への手紙5章31節~32節参照)。イエス様も、旧約聖書全体は、イエスご自身について証しする書物であると述べています(ルカの福音書24章27節参照)。旧約聖書の中に散りばめられたイエスの福音、預言、奥義などを発見するという楽しみも待ち構えています。

清宣教師